* はじめに
不世出の思想家、エーリッヒ・フロムが愛の理論と実践について語り尽くす一冊。
フロムは「愛」とは「技術」であり修練を要するものだといいます。そして、ここでいう「愛の技術」とは「愛される技術」ではなく「愛する技術」です。一体、何が違うんでしょうか?
「愛されたい」と思わない人はあまりいないと思います。だからこそ、世の中には様々な恋愛テクニック本が存在するわけです。これらはもっぱら「愛される技術」です。
そういった諸々が一概に悪いとは思いません。その動機の純・不純はさておき、自分を高める努力をしようとする姿勢自体はむしろ
尊いものです。
けど、どんなに容姿を整えようが、数々の恋愛テクニックを駆使しまくろうが、全く相手にされない時はされないし、逆に一切そんな努力をしてないのになぜか好かれてしまうという時もある。
要するに、当たり前のことですが「愛されるかどうか」という問題は、もっぱら相手側の恣意的、主観的評価にかかっており、自分側でコン
トロールできない不確定要素があまりにも多いわけです。
つまり「いかに愛されるか」という生き方は、他者の評価に縛られた苦しい生き方になります。
これに対して「いかに愛するか」という生き方は、他者の評価に縛られない自由な生き方です。
ここでは、他者が愛してくれようがくれまいがもはや関係のない、自分自身の心の在り方だけが問われている。
こうした「いかに愛するか」という生き方を、より善く為し得るために「愛する技術」の習得が必要となってくるというわけです。
* 愛の定義
ところで、ある特定の対象を理論的に考察するにおいてはまず、定義の確定が必要となります。では、ここでフロムが考察しようとする「愛」とは何でしょうか?
まずどの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。つまり「いかに孤立を克服するか」という問題です。
孤立は罪責感、不安などのネガティブな感情を生み出す源泉となります。では、どのようにして人は孤立を克服し、他者との合一を達成するのか。
この点、フロムは他者との合一を達成するためのいくつの様式を挙げています。「祝祭的儀式」「集団的同調」「生産的活動」などです。
要するに例えば、飲み会やライブなどは「祝祭的儀式」と言えますし、流行のファッションやガジェットを追い求めるのは「集団的同調」でしょう。また、文章、音楽、イラストなどを創作をしたりするのは「生産的活動」に当たります。
もちろんこれらの営みは我々の人生に何がしかの豊かさをもたらします。ただ「祝祭的儀式」で得られる一体感は一時的な一体感でしかなく「集団的同調」で得られる一体感は偽りの一体感であり「生産的活動」で得られる一体感は人間同士の一体感ではない。
この点、フロムは「愛」こそが人が孤立を克服し他者との間で一体感を得るための完全な答えであるという。
もっとも、フロムがここでいう「愛」とは「共棲的結合」というべき未成熟な愛ではなく「実存的問題に対する答え」としての成熟した愛だという。
「共棲的結合」という言葉はなんとも難しいですが、要は
服従したり支配するというような関係のことです。
これに対して、成熟した愛とは個人の全体性と個性を保ったままでの結合である、とフロムはいう。そしてこのような意味での愛は、何かに突き動かされてその中に「落ちる」ような「受動的感情」ではなく、自ら踏み込む「能動的活動」であるといいます。
愛は、人間の中にある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。愛によって人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、
パラドックスが起きる。
この愛の能動性をより平明に言えば愛の本質とは「与えること」にある、とフロムは言います。与えることとはまさに人の中に内在する生命力の表現であり、与えることで人は幸福感を感じるということです。
そしてフロムは愛の能動的要素として「配慮」「責任」「尊重」「知」を挙げています。つまり、愛とは相手に対して積極的な「配慮」を払い「責任」ある態度で「尊重」することを通じ、相手を「知」ることであるということです。
* 愛の生成
では、このような「愛」はいかにして人の中で生まれ、育まれていくのでしょうか?
多くの場合、人はまずもって親の愛を通じて愛の概念を知ることになります。もっとも親の愛は母性原理的な愛と父性原理的な愛があります。
生まれたばかりの赤ん坊にとっては母親(養育者)が世界の全てですが、やがて、相対的に父親(第
三者)との関係性が重要になってきます。
母性原理的な愛は子どもが母親(養育者)の子どもとして「ただいること」で愛される無条件の愛です。これに対して、父性原理的な愛は子どもが父親(第
三者)の期待に「こたえること」で享受することが出来る条件付きの愛です。
こうした過程を経ることで子供の中に愛が生成されていく。「ただ愛される事」しか知らなかった幼い子どもは、やがて「愛されるために愛する事」を知り、さらに「愛すれば愛される事」を知るということです。
もっとも以上に述べたことはあくまで理論的なモデルであり、普通こんなにうまく行かないです。
だいたいどこかで歪みが残ったまま子どもは大人になる。だからこそ愛する技術を習得するための「愛の修練」が必要になるわけです。
* 愛の修練
まず「愛」は技術である以上、「愛の修練」には当然、技術習得における一般原則が当てはまるとフロムはいいます。すなわち「規律」「集中」「忍耐」「関心」です。
一見、奇異にも見えますがよく考えれば腑に落ちるものです。
例えば、昨日は気分が良かったから、他人に親切にしたり優したりしたけど、今日は気分が悪い
からしたくないといったムラのある態度では修練とは言えないでしょう。なるほど「規律」は大事です。
また、修練である以上「今、ここ」に「集中」しなければいけません。人の脳は気がつくと色々とロクでもないことを考え出すようにできています。あの時ああすればよかったとか過去に囚われると
抑うつ的になり、こういう時どうすればいいのかと未来を憂えば不安になる。
そういう思考を手放し、まさに「今、ここ」現在に意識を向ける。これは現代でいうマインドフルネスに当たるでしょう。実際にフロムは毎朝20分くらいの瞑想を勧めています。
一方、こんなに「愛の修練」を頑張っているのに誰からも愛されないし「成果」が上がらないからやめたというのもいただけないでしょう。
そもそも上に述べたように成熟した愛とは「与えること」であり、「見返り」を期待するものではない。これは「忍耐」が欠如した態度ということになります。。
そして、どんな技術でも「好きこそ物の上手なれ」です。「関心」を持って真摯に取り組めば上達は早い事はいうまでもありません。
* 事象を客観的に、そして謙虚に見る
また、フロムは愛の修練において重要なのは「
ナルシシズム」を克服し、事象を客観的に、そして謙虚に見る事であるといいます。
ここでいう「
ナルシシズム」というのは「自己愛」のことです。ナルシストと呼ばれる人のみならず、普通は誰しも「自己愛」は持っていますがその成熟の程度が問題となるわけです。
自己愛パーソナリティ障害の研究で著名な
精神科医、ハインツ・
コフートによれば、子供の自己愛は「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成されるといいます。
つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全自分本位の物語があるわけです。
もちろん世の中そうはなっていません。それ故いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもないという現実を受け入れ、誇大的な自己イメージを現実に適応した形へ成熟させていくことに他ならない。つまり、愛の修練とは、まさに自己愛の修練でもあるわけです。
* おわりに
確かにフロムの示す「成熟した愛の在り方」は一つの理想の極であり現実的にはなかなか実践困難な生き方でしょう。
別に我々は聖人君子ではない。優しくされたら普通に嬉しいし、冷たくされたらやっぱり腹が立つ。大なり小なりと、他人から愛されない事による苦しみや悲しみいったネガティブな感情は日々生起する。
藤原さくらさんの名曲「Soup」の歌詞のように、普通、恋愛などというのは愛されたいと愛したいの感情がないまぜとなり、ぐだぐだに煮込まれたスープを飲み干すようなものだと思います。そこには甘さもあれば辛さもあり、苦味もあれば旨味もある。
それを美味しいと感じるかどうかは個人の捉え方にかかっている。
この点、美味しいかどうかの判断基準が「おふくろの味」だけ、つまり無条件の母性原理的な愛だけだと、大抵のスープは不味く感じるでしょうね。
そこで美味しいと感じる判断基準を多様化しておくことが必要となる。ここで、フロムの示す「愛の実践」は一つの判断基準を示すモデルとして機能することになります。
つまり理想は実践困難であるからこそ、なおさら高く掲げておかなければならない。そういうことなんだと思います。
苦しみや悲しみと言ったネガティブな感情があるからこそ人生は味わい深い。問題はそれらといかに上手く付きあって行くかという事なのでしょう。