かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

リズムのあいだ、あいだのリズム--千葉雅也『センスの哲学』

* 有限性の哲学--意味がある無意味と意味がない無意味

 
千葉雅也氏の哲学をあらわすキーワードの一つに「有限性」というものがあります。ここでいう「有限性」とは物事の「意味」と「無意味」をめぐる問題に関わっています。千葉氏は『意味がない無意味』(2018)という論集の冒頭に置いた総論的な論考「意味がない無意味--自明性の過剰」で「意味」に対する「無意味」を〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉から論じています。
このうち〈意味がある無意味〉とは無限に「意味」を産出する源泉である一方で、その「本当の意味」は明らかにならず常にいわく言いがたい「謎のx」として残り続ける無限に多義的な無意味のことです。つまり、世の中のあらゆる対象は〈意味がある無意味〉という「謎のx」の周りを空回りするように意味を生産し続けているわけです。
 
このような〈意味がある無意味〉は現代思想の文脈でいえばフランスの精神分析ジャック・ラカンのいうところの「現実界」に相当します。ラカンは人間の精神活動を「想像界(イメージの次元)」「象徴界(言語の次元)」「現実界(イメージと言語の外部の次元)」という三つの次元から説明しています。ここで「意味」とは「イメージ」と「言語」によって成り立っており、イメージでも言語でも意味づけできない「現実界」は「謎のx」として無限に「意味」を引き起こし続ける意味の彼岸としての〈意味のある無意味〉に位置付けられます。
 
そしてこのようなラカン的構図を辿っていけばイマヌエル・カントの超越論哲学に行き着きます。カントによれば我々が認識しているものは「現象」であり、その外部に不可知の「物自体」があります。この「物自体」がラカンでいうところの「現実界」に相当します。
 
これに対して〈意味がない無意味〉とは〈意味がある無意味〉をめぐる意味の増殖を止めるそれ自体における即自的無意味をいいます。そして千葉氏は〈意味がない無意味〉とは「身体 body」であるといいます。ここでいうbodyとは生物学的肉体のみならず「物質」や「集団」や「形態」、そして音楽的な「リズム」といった広い意味で用いられています。このような「身体」による「意味」の「有限化」が千葉哲学の基本的な構えをなしています。
 
例えばポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズを論じた千葉氏の初の単著となる『動きすぎてはいけない』(2013)のテーマは「接続過剰から非意味的切断へ」でした。ここでいう「接続過剰」が〈意味がある無意味〉を原因とする無限の多義性のことであり「非意味的切断」の「非意味」が〈意味がない無意味〉に相当します。つまり「接続過剰から非意味的切断へ」とは〈意味がある無意味〉から生じる「意味」の氾濫を〈意味がない無意味〉で切断することで「意味」を「有限化」するという構図を指しています。
 
そして千葉氏の名を広く知らしめた『勉強の哲学』(2017)はまさしくこうした「有限性」の実践哲学であったといえます。さらに一昨年に公刊されるやいなや幅広い反響を呼んだ『現代思想入門』(2022)では現代思想の様々な潮流を「近代的有限性」と「古代的有限性」といった二つの観点から捉え返す議論が展開されています。
 
ところでカント哲学では人間の心的能力を「知性」と「理性」と両者を媒介する「判断力」の三つから捉えています。このようなカント的図式に準えるのであれば「知性の有限性」を論じた著作が『勉強の哲学』であり「理性の有限性」を論じた著作が『現代思想入門』であったともいえそうです。そうであれば、やはり両者を媒介する「判断力の有限性」を論じた著作が本書『センスの哲学』であるといえるかもしれません。
 

*「センス」を育てていくということ

本書のテーマは「センス」です。「センス」などという一見してとらえどころのない言葉には例えば「あの人、がんばっているけど、センス悪いんだよね」というように、どこかトゲのある排他的な響きが含まれています。つまり、ここで「センス」とは努力ではどうしようもない部分のことを指していたりもします。
 
けれども、本書は「センス」とは努力ではどうにもならないものとは考えず、むしろ人を解放し、より自由にしてくれるようなものとして「センス」なるものを捉え直し、このような意味での「センス」を楽しみながら育てていくことを目指します。
 
本書は「センス」をひとまず「直感的にわかる=直感的で総合的な判断力」として定義した上で、音楽、ファッション、インテリア、美術、文学などなどといった様々な領域においてこの「直感的にわかる」を広げていきます。本書は一種の芸術論ですが、狭い意味での芸術だけを論じるのではなく、その狙いは芸術と生活とつなげる感覚を伝えることにあるといいます。
 
本書は「センス」が良くなる方向を「いったんは」目指しますが、最終的にはセンスの良し悪しの「向こう側」にまで、ある意味でセンスなどもはやどうでも良くなるところへと向かっていくことになります(それを「アンチセンス」と本書は呼びます)。
 

* 意味からリズムへ

 
まず本書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで本書はまず、このような理想的なモデルを再現するゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると本書はいいます。
 
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった「リズム」を即物的に捉えるということです。
 
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています(ここでいう「強度」も「反復と差異」もいずれもドゥルーズに由来する用語です)。そして、こうした「リズム」とは大体において多層的なもの、マルチトラック的なものとして現れます。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると本書はいいます。
 

* いないいないばあの原理

 
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つの捉え方は生成変化論と存在論という哲学の二つの立場に対応します。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが本書のいうリズム経験であるということです。
 
この点、小説などの物語の基本形式とは大きくいえば「0」から「1」へと「欠如を埋める」ものとして捉えられます。つまり、物語に感情移入するとはその「0」から「1」へという「ビート」にシンクロするということです。
 
こうした「0」から「1」へと「欠如を埋める」というもっともシンプルな物語が「いないいないばあ」という子どもの遊びです。精神分析の始祖ジークムント・フロイトは後期を代表する論文「快原理の彼岸」で自分の孫であるエルンスト坊やの「糸巻き遊び」を取り上げ、ここで子どもは「Fort-Da いないいないばあ」のようなリズム形成により母の不在を自ら上演しているのであると解釈しました。
 
すなわち「いないいない」という遊びには「いないいない=0」と「ばあ=1」という存在論的な「ビート」を生成変化論的な「うねり」に書き換えることで「欠如」をめぐる不安を乗り越えていく契機が含まれているということです。これを本書は「いないいないばあの原理」と呼びます。言ってみれば「センスの良い人」というのは「いないいないばあ」の優れた使い手であるということです。
 

* 意味すらもリズムへ

 
こうしたことから本書は作品における核心的なメッセージといった「大意味」ではなくその背後に騒めく様々な「小意味」のリズムのうねりに注目するモダニズム的な見方を提示し、さらに「意味」それ自体も「脱意味化」してしまい、ただの形としての「リズム」として捉えるフォーマリズム的な見方を導入します。
 
そして本書は芸術作品における「感動」について大意味に対する「大まかな感動」とは別の小意味のリズムの絡み合いの構造に対する「構造的感動」という概念を提唱します。つまり「センス」とは喜怒哀楽を中心とする「大まかな感動」を半分におさえて、色々な部分の面白さに注目できる「構造的感動」ができることになるということです。そのためには日常において生起する小さなささやかなことをきちんと言語化していく練習が必要となってくるわけです。
 
ここから本書は後半部においてリズム経験から生じる「差異=予測誤差」をラカンのいう「享楽」やカントにおける「美」と「崇高」の概念を参照しつつセンスの「良さ」についての考察を深めていきます。そして、このようなさまざまな偶然性に開かれたリズム経験を「仮固定」して「有限化」するということが作品を創るということです。つまりさまざまな芸術作品に触れるということは自分には思い付かないようなさまざまな「有限性」を知る契機となるということです。
 
意味からリズムへ。意味すらもリズムへ。ここではまさに〈意味がある無意味〉から生じる「意味」の無限の増殖を〈意味がない無意味〉としての「身体=リズム」で切断していくという千葉哲学における「有限性」の構図が熟成された文体でこれまでになく鮮明なかたちで打ち出されているように思えました。
 

* リズムのあいだ、あいだのリズム

 
このように本書が「センス」をめぐる大きな方向性として提示するリズム経験とは現象学的な観点からいえば個人と世界との「あいだ」の経験であるということもできそうです。このような「あいだ」の経験を現象学精神病理学の見地から緻密に理論化したことで知られる精神科医木村敏氏は後期におけるいわゆる「生命論的転回」の嚆矢となる著作『あいだ』(1988)において音楽の合奏を例に「あいだ」の経験が個人の意識にもたらす作用を次のように論じています。
まず木村氏は音楽の演奏を⑴いまここの音楽の演奏それ自体の行為と⑵これまで演奏された音楽の参照と⑶これから演奏する音楽の先取りという三つの契機から成り立っているとした上で⑴いまここの音楽を演奏それ自体の行為を意識の「ノエシス的」な面に対応させ⑵これまで演奏された音楽の参照と⑶これから演奏する音楽の先取りを意識の「ノエマ的」な面に対応させています。
 
ここでいう「ノエシス」とは人間の意識における対象志向的あるいは対象構成的な作用の側面を指しており「ノエマ」とはノエシスの作用によって志向され構成された対象=表象を指しています。
 
この点、現象学の始祖エトムント・フッサールによれば志向作用としての「ノエシス」により志向対象としての「ノエマ」が構成されることになりますが、木村氏はビクトーア・フォン・ヴァイツゼカーのいう「ゲシュタルトクライス」や西田幾多郎のいう「行為的直観」といった概念を参照し、ノエシスノエマの関係をノエシス的な面がノエマ的な面の源泉となると同時にノエマ的な面がノエシス的な面を限定するという円環的な関係として捉えています。
 
そして木村氏は理想的な合奏音楽の場合、演奏者全体の「あいだ」という虚の空間において生じる合奏がそれぞれの演奏者の意識において虚のノエシス的な面となり、個人のノエシスノエマの円環を先行的に限定する「メタノエシス原理」として作用するといいます。
 
リズムがあいだを生み出しあいだがリズムを生み出すということ。芸術に創作や鑑賞といった形で関わることで何かしらの音楽的な「リズム」が鳴り響いてきます。そしてこの多層的な「リズム」が織りなすあいだから創作者/鑑賞者としての個人のノエシスノエマの円環を仮固定的に「有限化」していくメタノエシス的な「あいだ」のリズムが生じることになります。そしてこのような「リズム」は狭義の芸術作品のみならず、日常的な生活空間のさまざまな「あいだ」からも鳴り響いてくるでしょう。
 
こうした意味で本書は日々の暮らしの「あいだ」からさまざまなかたちで聴こえてくる「リズム」の鳴動にていねいに耳を傾けていくための「センス」を涵養するためのまたとない一冊であるといえます。また人によって本書は自分でも何かを創り出したくなる気にさせてくれる一冊になるようにも思えました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これから東浩紀に入門するためのおすすめ7冊

* 訂正する力(2023年)

⑴「訂正可能性」から読み解く東思想
 
昨年、批評家デビュー30周年を迎えた東浩紀氏は1993年にかつての「ニューアカデミズム」を牽引した柄谷行人氏と浅田彰氏が編集委員を務める『批評空間』からデビューし、1998年にはフランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家であるジャック・デリダを斬新な観点から読み直した初の単著『存在論的、郵便的』が浅田氏の激賞とともに世に送り出され、現代思想シーンにおける気鋭の論客として一躍、斯界の脚光を浴びることになりました。
 
ところがゼロ年代における東氏の仕事は一転して、2001年に公刊された氏の代名詞でもある名著『動物化するポストモダン』に象徴されるようなアニメ・ゲーム・ライトノベルといったオタク系文化を切り口とした情報社会論へと移行します。さらに2010年代以降における氏の仕事はさらにまた一転して、自ら創業した「ゲンロン」という会社を拠点とした「知の観(光)客の創出」というある種の哲学実践へと転回していきます。
 
このようにデビューから現在までの間で東氏の仕事は1990年代のフランス現代思想ゼロ年代の情報社会論(オタク論)、2010年代以降の観(光)客論といったように表面的にみると様々に変転を遂げているようにみえますが、これらの仕事は一貫して「訂正可能性」という理論によって規定されています。このような東思想の根幹をなす「訂正可能性」を現代日本社会においていかに活用していくかを様々な切り口から語り倒した一冊がデビュー30周年を記念して昨年公刊された本書『訂正する力』です。
 
⑵「じつは・・・だった」という発見
 
「失われた30年」という言葉に象徴されるように1990年代初頭のバブル経済崩壊以降、今日に至るまで長きにわたって停滞を続けてきた日本社会はいまや政治経済における様々な局面で行き詰まりを見せています。このような惨状を前にある言説は「リセット」を叫び、またある言説は「ぶれない」ことにこだわります。
 
こうした中で本書は「リセット」と「ぶれない」のあいだでバランスをとる「訂正する力」が大事であると説きます。本書のいう「訂正する力」とは過去との一貫性を主張しながらも、実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力のことをいいます。そして、その核心には「じつは・・・だった」という発見の感覚があります。
 
人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」され続けていくという現象を東氏はルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。
 
そして、これはデリダのいう「脱構築」とも極めて近い発想です。彼は哲学の伝統的なルールに則っているように見せかけつつ、それを深く追求することによって哲学のかたちを「いつのまにか」変えてしまうという試みをまさに哲学の方法として提示しました。このような脱構築的な手法は日本においても実践的に有効であり、むしろ日本では脱構築しか有効ではないというべきかもしれないと東氏はいいます。
 
すなわち、ルールを書き換えるためには既存のルールをひそかに訂正しつつ、その新しさを全面に押し出さずに「いや、むしろこっちこそ本当のルールだったんですよ」と主張するような現在と過去を結びつけていくしたたかな両面戦略が必要になるということです。
 
本書は哲学とは決して現実から遊離した観念の遊戯ではなく、むしろ現実を変えていくための実践知であることを教えてくれます。こうした意味で本書は東思想の現時点における決定的な入門書であると同時に実践知としての優れた哲学入門であるといえるでしょう。
 
⑶「訂正する力」を取り戻すために
 
本書は哲学とは「時事(時局への対応)」「理論(基本原理の究明)」「実存(生き方の提示)」の3つの領域の連関から成り立っており「訂正する力」もまたこの3つの領域をシームレスにつなげていくといいます。こうした観点からいえば、本書の第1章は「時事編」であり第2章は「理論編」であり第3章は「実存編」となります。そして第4章はここまでの議論の「応用編」であり「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像のアップデートを試みる議論が展開されます。本書によれば「訂正する力」は次のような機能を持っています。
 
第一に「訂正する力」とは「空気」を書き換える力です。日本社会は「空気」と呼ばれる無意識的なルールに支配されているとよく言われます。こういった「空気」を変えるためには「空気」から素朴に脱出しようとするのではなく、同じ「空気」の中にいるふりをしてながら、少しずつ違うことをやっているうちにいつのまにか「空気」が変わってしまうというアクロバットをやるしかなく、その「いつのまにか」をどう演出するかという課題に答えるのが「訂正する力」であると本書はいいます。
 
第二に「訂正する力」とは「正しさ」を更新する力です。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことです。けれども現在の「コレクトネス=正しさ」は普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」されていく運動が生み出した暫定解に過ぎず、今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。それゆえに現在の価値観による過去の行為の断罪はむしろポリティカル・コレクトネスの精神に反しているともいえます。
  
第三に「訂正する力」は「喧騒」を生み出す力です。そしてこれは民主主義の問題とも関係しています。すなわち、民主主義社会とは唯一絶対の正解への到達を目指す社会ではなく、むしろ人々がさまざまな立場から多様な意見を自由に主張する「喧騒」の中で、相手の立場を尊重しながらも互いに「訂正」を求めあっていく社会です。そして、そこに「喧騒」があるということはそこには「平和」があるということです。
 
第四に「訂正する力」は「幻想」を創り出す力です。ここでいう「幻想」とは「現実」を覆い隠す思考停止ではなく、むしろ「現実」に向き合って前に進んでいくための道標です。この点、かつて明治日本は近代化という「現実」に向き合うため天皇親政という「幻想」を創り出し、戦後日本は経済復興や国際復帰といった「現実」に向き合うべく平和主義という「幻想」を創り出しました。そして今日における日本社会の機能不全はこのような意味での「幻想」の機能不全に起因しているともいえるでしょう。こうしたことから本書は文化論的な観点から戦後日本における平和主義の「訂正」を提案します。
 
本書はかつての日本社会に備わっていたはずの「訂正する力」を今こそ取り戻そうと呼びかける書物です。もちろん本書の個別的な提案に対しては様々な異論もあると思います。けれどもそのような様々な異論が異論として色とりどりにばらばらなままでせめぎ合う社会こそがまさしく「訂正可能性」に満たされた社会であるといえるでしょう。
 
そして東氏は過去の著作においても、このような「訂正可能性」の理論を「じつは」繰り返し論じています。少なくとも、そのような観点から読み直すことができます。こうしたことから以下では東氏の過去の著作の中で「訂正可能性」がどのような形で論じられていたかを見ていきたいと思います。
 

* 観光客の哲学(2017年)

⑴ 誤配と観光客
 
先述したように東氏は「ゲンロン」という会社の創業者でもあります。2010年に創業されたゲンロンはもともとは「若手論客が集まる出版社」として構想されていました。ところが創業してから数年の間、同社は内外における様々なトラブルに見舞われ、当初の志であったはずの出版事業は暗礁に乗り上げ、一時は会社自体が倒産の危機にまで追い込まれていたそうです。そんな苦境の中でゲンロンを救ったのがカフェ事業とスクール事業という二つの「誤配」であったと氏は述べています。
 
こうした「誤配」に導かれていく中で東氏が得た洞察と手ごたえをもとに執筆された著作が本書『観光客の哲学』であったといえます。この点、氏はゲンロンという事業を営む上で様々な失敗を繰り返した経験から「なにか新しいことを実現するには、いっけん本質的でないことこそ本質的で、本質的なことばかりを追求するとむしろ新しいことは実現できなくなる」という逆説があると述べています。そしてこの本質と非本質をめぐる逆説は伝統的な哲学のテーマを「観光客」という世俗的な言葉に結びつけて語る本書の企図にも現れています。
 
この点「観光客の哲学」と銘打っているものの本書は現実の観光産業の実態を紹介する本でも観光客の心理を分析する本でもありません。本書は「観光客」をあくまで哲学的な概念として記述していきます。そしてそれは哲学の伝統的なテーマである「他者」の問題を「観光客」という言葉でいわば裏口から更新する試みであり、その狙いは第一にグローバリズムにおける新たな思考の枠組みを作ることにあり、第二に人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示することにあり、第三に「まじめ」と「ふまじめ」の二項対立を超えたところで新たな知的言説を立ち上げることにあるとされています。
 
なお先述のように『動物化するポストモダン』の著書として知られる氏は現在でもオタク系文化に詳しい批評家というイメージが流通しています。オタクと観光客。両者は一切つながりがないどころかむしろ水と油のようにも見えますが、氏はオタク系文化における「二次創作」と本書のいう「観光」は原作あるいは観光地から自分達の好むイメージだけを切り出して消費するという点で極めて似ていると指摘します。こうしたことから原作者と二次創作者の関係を住民と観光客の関係とパラレルに考えるのであれば氏のオタク論は容易に観光客論に接続されることになります。いわば二次創作者はコンテンツの観光客であり、観光客とは現実の二次創作者であるということです。
 
⑵ 二層構造の時代とマルチチュード
 
本書は現代を「ナショナリズム」と「グローバリズム」という二つの層が折り重なって併存する「二層構造の時代」と位置づけます。この点、近代哲学の人間観はナショナリズム国民国家)と不可分に結びついていました。しかしこのような立場を徹底していけばナチスドイツのイデオローグであったドイツの法哲学カール・シュミットが提唱した友敵理論のような「友」の峻別と「敵」の殲滅にまで行き着いてしまいます。こうしたことから本書はナショナリズムグローバリズムを往還し「友」と「敵」の二項対立を乗り越えていく存在として「観光客」を構想します。
 
そこで本書は今世紀初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリマイケル・ハートの共著『帝国』(2000)が描き出すグローバリズム(帝国)における市民運動の担い手である「マルチチュード」を先行モデルとしつつも、ネグリたちのいう「マルチチュード否定神学マルチチュード)」が抱え込む神秘主義的な欠陥を回避すべく、ネットワーク理論の知見を導入し「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離)」と「スケールフリー(成長と優先的選択による次数分布の偏り)」という二つの特性を持った人間社会というネットワークの「つなぎかえ=誤配」を担う存在として「観光客(郵便的マルチチュード)」を基礎付けます。
 
本書のいう「否定神学」とは存在しえないものとは存在しないことによって存在するという逆説的な修辞を指しています。これに対して「郵便」とは存在し得ないものは端的に存在し得ないけれども、さまざまな「誤配(コミュニケーションの失敗)」の効果で存在しているかのような効果を及ぼすという現実的な観察を指すといいます。
 
すなわち、ネグリたちの「マルチチュード否定神学マルチチュード)」の連帯とは連帯が存在しないことで存在するとされていましたが、本書のいう「観光客(郵便的マルチチュード)」の連帯とは絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうということです。この両者の性格の相違を本書は端的に前者がコミュニケーションなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションすると述べています。そして、こうした「観光客」のコミュニケーションの中にこそ「訂正可能性」が宿るということです。
 
本書では何人もの哲学者が入れ替わり立ち替わり登場しては哲学初心者には耳慣れない概念が次々に飛び交う議論が展開されていますが、東氏の文章はとても平明であり、直感的にわかりやすいイメージも交えて、どの議論も文字通り基礎の基礎から始まります。こうした意味で本書は「観光客」の視点から見た近代哲学の入門書でもあり、あるいは近代哲学の観光ガイドとしても読めるでしょう。
 

* 訂正可能性の哲学(2023年)

 

 

⑴  訂正可能性の共同体としての「家族」
 
東氏は『観光客の哲学』において「観光客」が依拠するアイデンティティの候補として「家族」という言葉を取り上げ、この「家族」という言葉を「観光客」の新たな連帯を表現する概念へと練成していく構想を示唆していました。こうしたことから『観光客の哲学』の続編となる本書『訂正可能性の哲学』では「家族」なる概念の再定義をめぐり「訂正可能性」が真正面から論じられることになります。
 
この点、従来の哲学は「家族」を否定し続けてきました。それこそプラトン以降の哲学史においては「閉じられた家族」という私的な領域の外部に「開かれた社会」という公的な領域があると信じられてきました。確かにこのような「社会」と「家族」という二項対立的な発想は直感的でわかりやすいものがありますが、その実「社会」と「家族」の違いはそれほど明瞭なものでもありません。
 
例えば人類学者エマニュエル・トッドがいみじくも明らかにしたように共産主義が共同体家族のイデオロギーでしかなく自由主義もまた絶対核家族イデオロギーでしかなかったのだとすれば、20世紀における冷戦構造とは所詮のところ形態を異にする「家族」の間の争いでしかなかったということになります。ある意味で人は「社会」においても畢竟「家族」から逃れられることができないということです。それゆえに本書はこのような厄介さを持つ「家族」なる概念を従来のような「社会」との対立項としてではなく、より柔軟な関係概念として捉え直していきます。
 
この点、20世紀を代表する哲学者の1人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行いました。すなわち、人はみな言葉を使って何かしらのゲームをしていますが、そこでは実は複数のゲームが重なり合っており、例えば「愛のゲーム」と「ハラスメントのゲーム」が紙一重のように、人は自分がいまどのようなルールのゲームをプレイしているかを原理的に知ることができないということです。これがヴィトゲンシュタインが考える「言語ゲーム」であり、彼はこのような複数の言語ゲームの重なり合いを「家族的類似性」と呼びました。
 
そして言語哲学者ソール・クリプキはこのようなウィトゲンシュタインの発見を『ウィトゲンシュタインパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。すなわち、例えば「68+57=5」が「間違い」かどうかは原理的には確定できず「68+57=5」を「間違い」と見做すには「68+57=5」が「正しい」という主張を「訂正」する共同体が必要となるということです。
  
もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなるはずです。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に更新される「訂正可能性」を孕んだものとなります。そして、このようにあらゆるルールが「訂正可能性」を孕んでいるにも関わらず、皆が複数のゲームを「同じもの」としてプレイしているという逆説はウィトゲンシュタインの提示した「家族的類似性」というイメージがぴたりと重なり合います。
 
こうしたことから本書は「家族」という概念をある面では終始一貫して「同じもの」に閉じられているけれども、ある面ではあらゆる「訂正可能性」に開かれているという一種の解釈共同体として再定義し、このような「訂正可能性」の論理から「観光客」という主体と「家族」という共同体を統一的に把握していきます。
 
⑵ 人工知能民主主義と訂正可能性
 
そして、こうした「訂正可能性」の観点から本書は現代における民主主義が抱え込む問題へと切り込みます。まず本書は2010年代とは「大きな物語」が復活した時代であったと述べています。ここでいう「大きな物語」とは平たくいえば人類はある特定の終極=目的に向かってまっすぐに進歩しているという思想をいいます。こうした意味で20世紀中盤までは例えば「共産主義」という名のイデオロギーが「大きな物語」として曲がりなりに機能していた時代でした。けれども、そのような思想は1970年代あたりから批判され始め、冷戦構造が終焉した20世紀の終わり頃にはもはや「大きな物語の失墜」が語られるようになりました。
 
ところが21世紀に入ると、そのような「大きな物語」は新たな装いのもとで復活し始めることになります。ただし今度の「大きな物語」の母体は共産主義のような社会科学ではなく情報産業論や技術論です。要するに、文系の「大きな物語」が消えたと思ったら、理工系から新たな「大きな物語」が出現したわけです。
 
例えば2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代になるとカーツワイルの議論に触発される形で人工知能が創り出すバラ色の未来を語る議論が多数現れるようになりました。今や我々は共産主義という第一の大きな物語の代わりにシンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席巻する時代を生きている、と東氏はいいます。
 
その一方で2010年代はスマートフォンソーシャルメディアの普及によるポピュリズムが台頭し、社会があらゆるところで分断され民主主義の危機が全面化した時代でもありました。そしてこのような民主主義の危機こそがシンギュラリティへの夢をさらに強化することになります。すなわち、いくら優れた通信環境を与えていくら良質の情報を提供しても結局のところ人間とはフェイクニュース陰謀論に踊らされる愚昧な生き物でしかないのであれば、むしろ重要な意志決定は人間ではなく人工知能に委ねるべきであり、少なくともその支援を受けるべきではないかという発想が出てくるということです。
 
このような人間による意思決定への失望を前提とした民主主義を本書は「人工知能民主主義」と名指し、その起源を社会契約の始祖の1人として知られる18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーが唱えた「一般意志」に見出します。こうした観点から本書ではルソーの思想を参照点として「人工知能民主主義=一般意志」の暴走を抑えるための「訂正可能性」の枠組みが提示されます。そしてこのような民主主義をめぐる問いとは、より直截に言えば社会における「正しさ」と「誤り」をめぐる問いでもあります。
 
このように本書は第1部において「社会」と「家族」という二項対立の脱構築から出発して、第2部では「正しさ」と「誤り」という二項対立の脱構築へと至ります。結局のところ人はいくら「社会」において「正しさ」を追求しようとしても、どこまでいっても「家族」から逃れることはできないし、いつまでたっても「誤り」を繰り返し続けているわけです。けれどもだからこそ、人は互いに「家族」として「誤り」を訂正し合って生きていくことができるともいえるでしょう。こうした意味で「訂正可能性」とは現代における持続可能な公共性の条件である同時にそれは持続可能な優しさの条件でもあるようにも思えます。
 

* 動物化するポストモダン(2001年)

⑴ オタク系文化と現代思想
 
ゼロ年代批評を切り開いた批評家東浩紀の名を広く知らしめた著作である本書『動物化するポストモダン』において東氏はコミック、アニメ、ゲーム、コンピューター、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と名指した上で、この「オタク系文化」には「シュミラークル(オリジナルとコピーの中間形態)の全面化」と「大きな物語(社会共通の価値体系)の機能不全」という2点においてポストモダンの実相が極めて強く現れているといいます。
 
まず本書は近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘します。ここでいう「物語消費」とは個別作品の背後にある例えば「宇宙世紀」のような「大きな物語(世界観設定)」を消費する行動様式であり「データベース消費」とは「シュミラークル」としてのコンテンツを生成する例えば「萌え要素」のような「データベース(非物語的な情報の束)」を消費する行動様式をいいます。
 
そして東氏によれば、こうしたオタク系文化における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといいます。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には社会共通の「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「シュミラークル」としての「小さな物語」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となります。すなわち、シュミラークルの氾濫の本質とは「データベース消費」となります。
 
さらにこのような「シュミラークル」と「データベース」の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望に二層化されることになります。そこで本書は当時オタク系文化の中心を担っていた美少女ゲーム(ノベルゲーム)のユーザーを範例として「シュミラークル」の水準での動物的欲求と「データベース」の水準での(形骸化した擬似的な)人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。
 
本書は一般的に現代思想の理論でゼロ年代初頭のオタク系文化を分析した本として捉えられていますが、実際に読めばむしろゼロ年代初頭のオタク系文化を手がかりとして現代思想の理論を更新した本であることがわかると思います。
 
⑵ 動物と人間のあいだで
 
本書で東氏がオタクの消費行動を通じて描き出す「データベース的動物」とはまさしく「観光客」の前駆体的な概念に相当します。
 
この点、人間の歴史における「近代」を完成させた哲学者として知られるゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは「人間」を自己意識を持ち他者との闘争によって絶対知や自由や市民社会に向かっていく存在であると規定しました。そしてヘーゲルはこの闘争の過程を「歴史」と呼び、こうして意味での「歴史」は19世紀初頭のヨーロッパにおいて終焉したと看做していました。
 
こうしたことからアレクサンドル・コジューヴはその講義録である『ヘーゲル読解入門第二版』(1968)の(特に日本で)よく知られた脚注においてヘーゲル的な「歴史」が終わった後、人々には「動物への回帰(アメリカ的消費社会に代表される既存環境に馴致する行動様式)」と「スノビズム(日本的「切腹」に代表される既存環境を形式的価値に基づき否定する行動様式)」という二つの生存様式しか残されていないと主張しました。
 
そして東氏はこうしたコジューヴのいう「スノビズム」を近代からポストモダンへの移行期における一つの特徴として位置付けつつも、いまや「スノビズム」の精神すら失われた現代(1995年以降の日本社会)をコジューヴに倣い「動物の時代」と規定します。
 
もっともコジューヴのいう「動物」と異なり東氏のいう「データベース的動物」には「シュミラークル」に没入して動物的欲求を満たす他に「データベース」へ介入する人間的欲望が(形骸化した形であるにせよ)残されています。
 
もしもここで東氏のいう「データベース」をヘーゲル的な「歴史」の部分的代替物として捉えるのであれば「データベース的動物」とはコジューヴ的な「動物」の手前でヘーゲル的な「人間」を「半分だけ」取り戻した存在であるともいえなくもないでしょう。そして、このようなデータベース的動物が持つ人間的欲望からまさにデータベースという名の言語ゲームにおける「訂正可能性」が開かれていくことになるのでしょう。
 

* ゲーム的リアリズムの誕生(2007年)

⑴ ポストモダンにおける文学論
 
動物化するポストモダン』の続編となる本書『ゲーム的リアリズムの誕生』では、ポストモダンにおける文学の可能性と社会と物語の関係についての考察が展開されます。そして、こうした議論の背景には「動物的」なポストモダンの消費者がそれでも「人間的」に生きるにはどのように世界に接したらよいかという問題意識があると東氏はいいます。
 
まず本書はポストモダンの文学の可能性を考えるにあたり当時の文芸市場を席巻しつつあった「ライトノベル」に注目し、その本質は物語ではなくキャラクターのデータベースというメタ物語的な環境にあるとして、大塚英志氏が提唱した「まんが・アニメ的リアリズム」という概念を参照します。すなわち、従来の近代文学自然主義的な「現実」を写生する「自然主義的リアリズム」に規定されているとすれば、ライトノベルは漫画やアニメといった「虚構」を写生する「まんが・アニメ的リアリズム」に規定されており、こうした二つのリアリズムの併立をポストモダン的な「想像力の二環境化」と呼びます。
 
そして本書はライトノベルの文学的な可能性を「まんが・アニメ的リアリズム」が歴史的に抱え込んだ「アトムの命題(記号的-身体的な両義性)」に求めた上で、柄谷行人氏の議論を拡張して前近代の語りが「不透明」で近代の自然主義文学が「透明」だとすれば、キャラクター小説の文体は近代の理想を前近代的な媒体に反射させ、その結果を取り込んだという屈折した歴史のゆえに「半透明」の言葉にあるといい、ここからライトノベルにおける文学的な可能性を「透明」の言葉を使うと消えてしまうような現実を「半透明」の言葉で炙り出していくような「現実の乱反射」に見出そうとします。
 
そしてその一方で本書はライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なるリアリズムを見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力に取り憑かれた別のリアリズムを召喚します。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目するリアリズムを氏は「ゲーム的リアリズム」と呼びます。
 
こうした「ゲーム的リアリズム」は従来の「コンテンツ志向メディア(小説や映画などの一方向的なメディア)」に加えて新たに「コミュニケーション志向メディア(ゲームやインターネットなどの双方向メディア)」が台頭する「メディアの二環境化」によって顕在化することになりました。すなわち、いまや物語的想像力は「想像力の二環境化(キャラクターのデータベースの発達)」と「メディアの二環境化(コミュニケーション志向メディアの台頭)」という二つの環境の変化によって、絶えずメタ物語的想像力との緊張関係のもとにあるということです。
 
このような観点から本書は従来のように物語と現実を対応させた読解技法である「自然主義的読解」に対して、物語と現実の間に「物語が流通する環境の効果」を挟み込む読解技法である「環境分析的読解」を提唱します。この点「自然主義的読解」は作品に内在する「物語的主題」を読み解いていきます。これに対して「環境分析的読解」は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていきます。こうした本書の提唱するメタ物語的読解は文学における解釈共同体という名の言語ゲームに「訂正可能性」を導入するための技法であるといえるでしょう。
 
⑵ 不能性と訂正可能性
 
また本書の付録として収録されている「萌えの手前、不能性に止まること--AIRについて」という論考も「訂正可能性」を考える上では極めて重要なテクストです。ここで論じられているのは2000年にゲームブランドKeyから発売された『AIR』という美少女ゲームです。この点、先述したように東氏は『動物化するポストモダン』においてシュミラークルに充足する動物的欲求とデータベースをめぐる人間的欲望が解離的に共存するポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付け、こうしたデータベース的動物の範例として美少女ゲームのユーザーを取り上げていました。
 
美少女ゲームなるジャンルの起源は1980年代にまで遡りますが、1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となります。この種の「泣きゲー」とも呼ばれる美少女ゲームのユーザーは基本的に、一方ではキャラクターである主人公に同一化して個別のシナリオに没入し、他方ではプレイヤーとして複数のシナリオすべての攻略を目指すことになります。ここにはまさしくキャラクターレベルにおける動物的欲求(シュミラークルの水準)とプレイヤーレベルにおける人間的欲望(データベースの水準)の解離的共存を容易に見出すことができます。そして、このような特性を持った美少女ゲームというジャンルの臨界点を示す作品として東氏は『AIR』を位置付けています。
 
氏は本論考においてこの『AIR』という作品で真に重要なのは、シナリオのレベルで強調される「父の不在」というテーマがシステムの工夫を利用して「プレイヤーの不在」というもう一つのテーマと重ね合わせられている点にあるといいます。
 
AIR』というゲームは三部構成をとっており、第一部と第三部はある種のループ構造の関係になっています。まずその第一部において主人公は神尾観鈴というメインヒロインを延命させた代償として物語からの退場を余儀なくされます。ここでプレイヤーはまずキャラクターレベルで物語から疎外されることになります(父の不在)。さらに第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかありません。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルにおいてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになります(プレイヤーの不在)。
 
こうしたAIRにおける「父の不在」「プレイヤーの不在」という異なるレベルにおける二重の疎外は本来的な美少女ゲームのユーザー体験である「全能性」としての「萌え」の手前にある「不能性」をプレイヤーに突き付けることになります。そういった意味から東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」と呼びます。
 
そして、こうしたAIRがもたらした「不能性」の感覚はある面でゼロ年代中盤以降のオタク系文化における一大潮流を形成することになる「日常系」と呼ばれる想像力を準備したともいえるでしょう。「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合、4コマ漫画の形式を取り、そこでは主に10代女子の何気ない日常が延々と描かれます。こうした日常系作品を語る上で一時期「尊い」という言葉がよく使われていましたが、この「尊い」という感覚はまさしくかつてAIRがプレイヤーに突き付けた「萌え」の手前にある「不能性」が「じつは」という「訂正可能性」の論理によって何か崇高な感覚として昇華されたものであるといえます。
 
この点、東氏は『観光客の哲学』においてドストエフスキー作品の弁証法的読解を通じて、その先に立ち上がる「観光客」の主体を「不能の父」と呼んでいます。このような観光客における不能性は「訂正可能性」から基礎付けられます。すなわち、世の中のあらゆるルールは原理的に「訂正可能性」にさらされている以上、人はどうやっても世の中で起きるすべての問題に対して中途半端なかたちでコミットメントしていく他はないからです。
 
しかしその一方で、世の中のあらゆるルールが原理的に「訂正可能性」にさらされているということは、観光客=不能の父としての中途半端なコミットメントもまた「つなぎかえ=誤配」による「訂正可能性」をもたらします。こうした意味でAIRという作品もまたユーザーを観光客=不能の父の位置に立たせることで、ゼロ年代におけるオタク系文化という名の言語ゲームにおける「訂正可能性」を引き出した作品であったといえるでしょう。
 

* 一般意志2.0(2011年)

⑴ データベースと熟議
 
フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーが1762年に公刊した主著『社会契約論』は「一般意志」の理念を提出し、フランス革命に決定的な影響を与えた政治思想の古典として一般には理解されています。しかしこの著作は実際はかなり謎めいた側面を持っています。
 
同書の説くところによれば個人はいつのまにか「社会契約」なるものに同意して「一般意志」なるものを生成していることになります。ここでいう「一般意志」とは人民の意志の統一そのものであり、その定義上決して誤りに陥ることがなく、ここから「一般意志はつねに正しい」という有名な命題が導かれます。
 
このような発想は普通に考えると荒唐無稽ともいえるでしょう。それゆえに従来ルソーの思想は近代民主主義が生成していく途上における「未熟」な思想として、あるいは全体主義に近接する「危険」な思想とみなされてきました。ところが近年の情報技術の飛躍的な進展はまさにこのような「未熟」で「危険」なルソーの思想を実装可能なものとしつつあります。この点、東氏は本書『一般意志2.0』においてルソーのいう「一般意志」を「データベース」として捉え直した「一般意志2.0」という概念を提示しています。同書の主張はまず次の二つの命題から成り立っています。
 
まず第一の命題はルソーのいう「一般意志」とは一般に考えられていような「熟議」を経て合意に至る「意識」ではなく、むしろ情念溢れる集合的な「無意識」を意味しているということです。すなわち、ルソーの理想は「意識(ヒトの秩序)」ではなく「無意識(モノの秩序)」に導かれる社会にあったということです。
 
そして第二の命題は現代とは「無意識を可視化できる」時代であるということです。すなわち、情報技術が飛躍的に進展した現代社会は「総記録社会」へと向かいつつあり、今や信じられないほどの多くの人々が自発的に、しかも実に克明に自らの行動や思考の履歴をネットワークの上に残し始めています。同書はこうした状況を「無意識の可視化」と呼び、これからの政府はそのように情報技術により可視化された「データベース」としての無意識を「一般意志2.0」として捉え、この「一般意志2.0」をできるだけ統治に活用すべきであると主張します。
 
以上の二つが同書の中核をなす命題です。しかし同時に同書はここでルソーと袂を分かち、精神分析の始祖ジークムント・フロイトを呼び出して、精神分析が意識による無意識の制御を志向するように国家の統治は「熟議(意識)」と「データベース(無意識)」の相互補完によって運営されるべきであるという第三の命題を導き出します。そして、このような「熟議」と「データベース」を組み合わせた「無意識民主主義」を同書は「民主主義2.0」と呼び、ここからさらに同書は「民主主義2.0」の社会では私的で動物的な行動の集積(データベース)こそが公的領域を形づくり、公的で人間的な行動(熟議)はもはや私的領域でしか成立しないという第四の命題を提示します。
 
⑵ 一般意志と訂正可能性
 
そして東氏は『訂正可能性の哲学』において、こうしたルソーの「一般意志」を「訂正可能性」の論理から再び論じています。先述したように同書は人工知能の発展を背景に台頭しつつある政治思想を「人工知能民主主義」と名指し、その起源をルソーが唱えた「一般意志」に見出しています。そして同時に同書は「人工知能民主主義」にはルソーの「一般意志」に隠された「訂正可能性」の論理を見落としているといいます。どういうことでしょうか。
 
一般的にルソーの社会契約論は、まず最初に自然状態があり、次に人々の間で「社会契約」が交わされ、結果として「共同体(社会)」における「一般意志」が生まれるという直線的な過程を描いたものとして理解されています。ところが東氏はルソーの社会契約ではむしろ最初に「共同体(社会)」の方が存在し、次にその起源として「社会契約」が見出され、その結果として「一般意志」なるものがあたかも最初から存在していたものであるかのように仮設されるという遡行的な発見の仮定が隠されているのではないかといいます。
 
そもそもルソーという思想家の出発点には『社会契約論』に先行する『人間不平等起源論』という著作で述べられているように人間は自然状態の方が幸せだったという想定があります。すなわち、ルソーからすれば本来、人は皆孤独で幸せに生きることができていた「にもかかわらず」ある時に誰かが「共同体(社会)」を発明したせいで皆が「社会契約」を同意する他になくなって「しまった」ということです。このようにルソーは「社会契約」の裏側に「にもかかわらず」「しまった」という「訂正可能性」の論理を見出していたということです。
 
ところがこのようなルソーの思想を良くも悪くも「まっすぐ」に受け継いだのが現在の「人工知能民主主義」です。ルソーの主張はその後の時代における無意識の発見や統計学の確立によって「まっすぐ」に合理的に読解できてしまいます。すなわち、ルソーのいう「一般意志」とは実は集合的無意識と統計的法則性について語っていたものとして理解できてしまうということです。ここから真の民主主義を実現するためには人間よりも機械の指示に従った方がいいのではないかという「人工知能民主主義」の発想が出てくることになります。
 
けれどもそれはルソーが忍び込ませた「にもかかわらず」「しまった」という訂正可能性の論理を削ぎ落とした理解に他なりません。ルソーの「一般意志はつねに正しい」という命題は「一般意志はつねに正しいとされてしまう」という隠れた副命題とともに理解されなくてはならない、と東氏はいいます。すなわち『一般意志2.0』において描きだされた「データベース」と「熟議」という二つの民主主義が組み合わさった社会とは「データベース=人工知能民主主義」に対する「訂正可能性」としての「熟議=喧騒」が健全に機能する社会であるということです。
 

* 存在論的、郵便的(1998年)

⑴ 固有名をめぐる記述主義と反記述主義
 
東氏が1998年に世に放ったデビュー作である本書『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。本書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって駆動する「郵便空間」として理論化したことで当時の現代思想シーンに鮮烈なインパクトを与えました。そして本書で東氏が打ち出した「郵便空間」を支える基盤が「固有名」をめぐる「訂正可能性」の理論です。
 
この点「固有名」を縮約された確定記述の束とみなす立場がゴットロープ・フレーゲバートランド・ラッセルが提唱した記述理論です。例えば「アリストテレス」という固有名は通常「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。こうした立場を「記述主義」といいます。
 
しかしアメリカの言語哲学者ソール・クリプキは1970年に行われた『名指しと必然性』という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。この時、記述理論に従えば「アレクサンダー大王を教えた人はアレクサンダー大王を教えていなかった」というおかしな命題が成立しているはずですが、実際には「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という命題はまったく問題なく通用します。これは〈アリストテレス〉なる固有名に確定記述の束に還元できない「剰余」が常に宿っていることを意味しています。こうした立場を「反記述主義」といいます。
 
そして、このような「剰余」の起源をクリプキは最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されるといいます。
 
もちろんこれは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の剰余について語るために「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。
 
ところがその一方でクリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。仮に「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、そこで「一角獣は実は存在した」という命題が成立するわけではありません。なぜなら「一角獣」という固有名はそもそも通常は「いつの日かそれが発見されるかもしれない」という想定の下で使用されていないからです。
 
⑵ 固有名と訂正可能性
 
つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかというコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその「訂正可能性」がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろ「訂正可能性」というコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。
 
つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定します。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになるということです。
 
こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出しています。
 
この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールです。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じています。
 
この点、デリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えています。すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されています。つまり、デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」です。
 
そうであればここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になります。そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになります。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されているといえます。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼びます。
 
アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれています。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現します。そして、これらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的に現れてくることになります。すなわち「訂正可能性」とは経験論的な領域を超えた超越論的な領域が出現するための条件として機能するということです。
 
⑶ 固有名になるということ
 
そしてこれは抽象的な哲学的思弁の話のみならず極めて具体的な個人の生き方の話でもあります。東氏は『訂正する力』において「固有名になれ」という提案をしています。ここでいう「固有名になれ」とは別に有名になれということではなく、周囲に対して職業や役職といった属性を売りにするような交換可能な存在ではなく「属性を超えた何か」で判断される環境を創り出すことで交換不可能な存在になるということです。
 
それは特別な能力を示せということではありません。そもそも人は誰でも交換不可能で固有の存在であり、それが普通に生きていると見えなくなってしまっているだけの話です。確かに我々は日常において、ともすれば自身を他者から期待された何かしらの類型の中に落とし込み、他人からの期待をこなすだけの交換可能な存在となってしまっています。
 
けれどもその鎧を打ち壊せば、人間はみな自動的に交換不可能な存在になると東氏はいいます。そして、そのためには「じつは」という訂正の梃子となる「余剰の情報」が必要であり、こうした「余剰の情報」こそが周囲が自分を「じつは」と「再発見」してくれる環境を創り出していくということです。換言すれば訂正可能な存在になるとは交換不可能な存在になるということです。そして、こうした生き方の提案はおそらく、これまでフランス現代思想、情報社会論(オタク論)、観(光)客論といった様々な領域を往還しながら常に周囲に「余剰の情報」を発信することで自身を訂正し続けてきた思想家東浩紀の生き方に根ざしたものでもあるということなのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

臨床行動分析から読み解く『窓ぎわのトットちゃん』と『ぼっち・ざ・ろっく!』

* 行動療法の歴史と臨床行動分析

我々は主体的に行動しているつもりでも実際のところ、その「行動」は自身が置かれた「環境」に規定されています。ここでいう「環境」とは身体や住居といった物理的環境のみならず、人間関係や時代背景といった社会的環境、認知や思考といった心理的環境をも含みます。こうした意味での「環境」に介入することで「行動」の変容を目指す心理療法が「行動療法」です。現代心理療法において主流を占める「行動療法」の歴史は大まかに次のような3つの世代に分けられます。
 
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めます。この時期の行動療法で重視されたのは「パブロフの犬」や「アルバート坊や」といった実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理です。この「レスポンデント条件付け」を神経症治療に応用したものが「系統的脱感作」であり、これは後には「エクスポージャー」という技法へと発展していきました。これが第1世代の行動療法です。
 
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知行動療法」と呼ばれるようになります。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化されました。こうして1970年代に認知行動療法心理療法の代名詞となります。これが第2世代の行動療法です。
 
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりするわけです。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残ります。こうした中で「臨床行動分析」と呼ばれる新世代の心理療法が出現します。これが第3世代の行動療法です。
 
こうした3世代にわたる変遷を経た現在では、行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「機能的文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきました。先に述べた第1世代と第2世代の行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属します。これに対して第3世代の行動療法である「臨床行動分析」は「機能的文脈主義」という異なった系譜に属しています。
 
この「機能的文脈主義」の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にあります。行動分析学の対象となる「行動」は大きく分けて二つあります。「レスポンデント行動」と「オペラント行動」です。レスポンデント行動とは「環境」に対する条件反射的な「行動」をいいます。これに対してオペラント行動とは「環境」の変化を期待する自発的な「行動」をいいます。伝統的な行動療法ではレスポンデント行動の消去が重視されましたが、行動分析学ではオペラント行動の制御を重視します。
 
そして、このような行動分析学に基づく臨床実践として知られているものに応用行動分析(ABA)があります。ABAは重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった「環境」を適切なかたちで調整することで適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及しています。
 
さらに今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになります。こうして行動分析学は「臨床行動分析」として心理療法の分野にも進出を果たします。この点、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」でしたが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるということです。
 

* 行動分析学の基本概念

 
行動分析学は人間の「行動」を「随伴性(行動により生じる環境の変化)」という観点から「先行事象(ある行動が起きる前の環境)」と「結果事象(ある行動が起きた結果として生じた環境)」からなる「三項随伴性」で捉えた上で、その「行動クラス(同じ機能を持った行動のまとまり)」に条件づけられた学習プロセスである「オペラント条件付け」に注目します。
 
そして行動における「随伴性」は結果事象として出現する刺激が「正(出現)」か「負(消滅)」かという点と行動が「強化(増大)」されるか「弱化(減少)」されるかという点で「正の強化(刺激の出現による行動の増加)」「負の強化(刺激の消滅により行動の増加)」「正の弱化(刺激の出現による行動の減少)」「負の弱化(刺激の消滅による行動の減少」という4つに分類されます。ここでは行動を増加させる刺激は「強化子」と呼ばれ、行動を減少させる刺激は「弱化子」と呼ばれます。
 
また行動分析学では「言語」も「行動」の一つとして捉えます。この点、言語の「話し手」の行動は「言語行動」といいます。「言語行動」はスキナーによれば7種類に分類されますが、とりわけ重要なのは「マンド(何かの行為を要求する言語行動)」と「タクト(何かの事象を報告する言語行動)」の2つです。
 
これに対して言語の「聞き手」の行動を「ルール支配行動」といいます。「ルール支配行動」におけるルールは話し手の違いから「教示」と「自己ルール」に分類され、その行動は言語行動の違いから「プライアンス(マンドに従うルール支配行動)」と「トラッキング(タクトに従うルール支配行動)」に分類されます。
 
我々は様々な事象をタクトすることができます。この点、物事を客観的に記述する言語行動を「純粋タクト」といいます。一方、物事を大げさに表現したり推論する言語行動を「不純タクト」といいます。こうした「不純タクト」の積み重ねが「不適切なトラッキング」を知らず知らず強化することがあります。
 
そして、このような「不純タクト→不適切なトラッキングの強化」という悪循環を改善する上で重要なのは、生起する事象を極力「不純タクト」ではなく「純粋タクト」で捉え直し、そこから「純粋タクト→適切なトラッキングの強化」という思考の好循環を作り出していくことにあります。ゆえに行動分析学では自身の言語行動とルール支配行動を純粋タクトするセルフモニタリングが重視されています。
 

* 関係フレーム理論

 
こうした「言語」を行動として捉えるアプローチをさらに洗練させたのが「関係フレーム理論(RFT)」です。RFTは1990年代に入り研究が進められた比較的新しい研究領域です。RFTでは人間の認知や言語的な活動のことを「関係フレームづけ」と呼びます。
 
RFTでは刺激-刺激間の関係性を「フレーム」と呼びます。このようなフレームは「等位(例:1+1と2は同じ)」「相違(例:犬と猫は違う)」「比較(例:AはBより優しい)」「反対(例:愛の反対は無関心)」「時間(例:今日は昨日の後)」「空間(例:時計は机の上)」「因果(例:勉強しないと試験に落ちる)」「階層(例:福岡は九州の一部)」「対照指示語的(例:悪いのはあなた)」などがあります
 
子どもは幼少時に様々な刺激間の関係付けを行うことでこれらのフレームを獲得します。その結果、人はある刺激と別の刺激が学習により関係フレームづけられると、直接は学習していない刺激同士の関係までも一定の範囲で関係フレームづけられます。このような現象を「刺激関係の派生」といいます。またある刺激が別の刺激と関係フレームづけされることで、その刺激の機能が変化してしまうことがあります。これを「刺激機能の変換」といいます。
 
ここで重要なのは刺激同士は文化や社会や時代といった「文脈的手がかり」によって関係づけられるということです。つまり制御変数としての「文脈的手がかり」を変えれば、関係フレーム付けというオペラントが変化することになります。この「文脈的手がかり」は刺激関係を制御する「Crel(シーレル)」と刺激機能を制御する「Cfunc(シーファンク)」に分けられます。
 
一般的にいってCrelによって関係づけられた刺激同士の関係を変えることは難しいでしょう。けれども世に溢れる一つ一つの刺激が持つ様々な機能は比較的容易に変化させることができます。従って、臨床行動分析においてはもっぱらCfuncの操作によってクライエントの行動に介入していきます。
 
ここまで行動療法の歴史から現在における展開をやや駆け足気味に概観してきましたが、こうしてみると時代が変われども人間の「行動」の原理というのはあまり変わらないようにも思えます。こうした観点から以下では昭和と令和という異なる時代において一世を風靡した二つの作品を通じて、そのことを考えてみたいと思います。
 

* ケース1--『窓ぎわのトットちゃん』から考える

 
まず一つ目の作品が『窓ぎわのトットちゃん』です。我が国のテレビ史における一時代を築き上げた大スタアである黒柳徹子氏がその少女時代を赤裸々に綴った本作は1981年に講談社から公刊されると同時に大きな反響を呼びました。本作は発売後の1年間で発行部数150万部を超え、現在では累計発行部数800万部を超える戦後最大のベストセラーのひとつに数えられています。著名人の自伝というよりも児童文学に近い趣きを持つ同書はいわさきちひろ氏のイラストとの相乗効果もあり、黒柳氏の予想を遥かに超えた幅広い層に読まれることになり、昨年には初のアニメーション映画にもなっています。
同作の序盤のあらすじは次のようなものです。舞台は戦時中の東京。高名なバイオリン奏者の長女として裕福で文化的な家庭に生まれたトットちゃんは入学した尋常小学校で問題児童として扱われていました。教室の机の天板が蓋になっているつくりに感動して授業中に何度も何度も開け閉めしたり、授業中に学校のそばを通りかかったチンドン屋を窓から身を乗り出して呼び込んだり、図画の授業では画用紙からはみ出す部分を机の天板に直接クレヨンで書き殴ったりと・・・こうした数々の奇行を繰り返すトットちゃんは尋常小学校を退学になってしまいます。
 
もっとも当時のトットちゃんはその状況を理解できておらず、ただ母親から新しい学校に移るのだと言われて連れていかれた先がこの物語の舞台となる「トモエ学園」です。トモエ学園の門をくぐったトットちゃんがまず目の当たりにしたのが本物の電車を活用した教室でした。この「電車の教室」を見た瞬間にトットちゃんをこの学校を気に入り、やがてトットちゃんはトモエ学園の中に初めて家庭以外で自身の居場所を見つけ出すことになります。
 
黒柳氏は2006年に公刊された同書新装版のあとがきで、当時のトットちゃんの言動はLD(学習障害)の一種ではないかという指摘がこの頃多くなされている旨を述べています。今でこそ、この種の言動を児童の個性の一つとして捉え、その個性に見合った指導方法を実践している学校も少なくないはずですが、当時はLDという概念すらありませんでした。トットちゃんにとってトモエ学園との出会いは、まさに奇跡のようなめぐりあわせであったといえるでしょう。
 

* 世界に対する好奇心

  
先述のようにトモエ学園の教室は払い下げられた電車を使用しており、各車両は教室や図書室とそれぞれ用途が決まっていて、児童はそこで授業を受けることになります。担任教師は朝に児童が教室に集まると、その日一日にやることを黒板に書き出します。そして児童たちはそのうちの好きなものから勝手に手をつけて良いと言われます。その結果、ある児童はピアノを弾き、ある児童は本を読み、ある児童は絵を描き、ある児童は外を走り始めることになります。授業は基本的に自習が中心で教師は子どもたちの自習に手を貸していくという形式が取られています。
 
またトモエ学園は校長である小林宗作氏がヨーロッパで学んだ「リトミック(ダルクローズ音楽教育法)」を基礎とする教育実践をコンセプトとして掲げていました。小林氏は「リトミック」とは「体の機械組織を、更に精巧にするための遊戯」であり「心に運転術を教える遊戯」であり「心と身体に、リズムを理解させる遊戯」であり「リトミックを行うと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います」と述べています。
 
こうしたことからトモエでは毎日リトミックの時間が設けられており、講堂のステージの上で校長先生がピアノを弾き、子どもたちはピアノのリズムに合わせて、またあるときはピアノのリズムと異なるリズムで歩きます。リトミックはこのように体と心にリズムを理解させることから始まり、これが精神と肉体の調和を助け、やがては想像力を醒まし、創造力を発達させるようになればいいという考えに基づいているそうです。
 
この点、尋常小学校でのトットちゃんの様々な問題行動を行動分析学でいう「三項随伴性」から見てみると、天板が蓋になった机やチンドン屋といった「面白い刺激の出現(先行事象)」「その刺激への反応(行動)」「さらに面白い刺激の出現(結果事象)」ということになります(正の強化)。
 
いわばトットちゃんの「行動クラス」は「世界に対する好奇心」によって規定されてたといえます。こうした意味でトットちゃんの好奇心を満たす様々な刺激が正規の施設やカリキュラムとして組み込まれたトモエ学園はトットちゃんにとって行動療法でいうところの「代替行動分化強化(不適応行動と機能的に等価な適応的行動の強化)」を促すうえで最適な環境だったのではないでしょうか。
 

* 君は、本当は、いい子なんだよ

 
またトットちゃんの様々な問題行動の裏には実はもう一つの行動クラスが隠されており、それは自身が感動した経験に対する「他者からの承認」によって規定されていました。トットちゃんは初めて校長先生に会ったとき「さあ、なんでも、先生に話してごらん」と言われて嬉しくなり、思いついた端からこれまで体験した感動エピソードを立て続けに話し続けます。その間、小林校長は笑ったり、頷いたり、それから?と促したりして、ついにトットちゃんがもう何も話すことがなくなるまで、およそ4時間にわたりトットちゃんの話を傾聴し続けます。
 
それまでのトットちゃんはどこかで「なんとなく、疎外感のような、他の子供と違って、ひとりだけ、ちょっと、冷たい目で見られているようなものを、おぼろげに感じていた」そうですが「校長先生といると、安心で、暖かくて、気持ちがよかった」と、黒柳氏は書いています。おそらく小林校長は出会った当初からトットちゃんの行動の裏に隠された「他者からの承認」を求める行動クラスを正確に見抜いていたのでしょう。
 
そしてトモエ学園に入学した後もトットちゃんはやはり「先生たちが、びっくりするような事件」をいくつも起こしていたようですが、校長先生はそんなトットちゃんの行動を穏やかに見守りながら折に触れて「君は、本当は、いい子なんだよ」と声をかけていました。
 
黒柳氏によればこの「君は、本当は、いい子なんだよ」という言葉には「いい子じゃないと、君は、人に思われているところが、いろいろあるけど、君の本当の性格は、悪くなくて、いいところがあって、校長先生には、それが、よくわかっているんだよ」というメタメッセージがこめられており、トットちゃんがこの言葉の本当の意味を理解したのは何十年も経った後だったそうですが、それ以上にこの言葉はトットちゃんにとって「私は、いい子なんだ」という自信をつけてくれた言葉であり「トットちゃんの一生を決定したのかも知れないくらい」の大切な言葉となりました。
 
すなわち、小林校長の「君は、本当は、いい子なんだよ」という「タクト」をトットちゃんは純粋に「私は、いい子なんだ」という文字通りの「純粋タクト」として受け止め、その結果としてトットちゃんの中で徐々に「適切なトラッキング」が引き出されていくという思考の好循環が生まれていったということなのでしょう。そして、その後のトットちゃん=黒柳さんの日本テレビ史に残る華々しい活躍の数々はあえてここに記すまでもないくらいに広く知られている通りです。
 

* ケース2--『ぼっち・ざ・ろっく!』から考える

 
次に取り上げる作品が『ぼっち・ざ・ろっく!』です。下北沢のライブハウスで活動する高校生バンドを描く本作は一昨年に放映されたアニメ化がきっかけでSNSを中心に大きく注目を集めました。本作のアニメは「ニュータイプアニメアワード2022-2023」で作品賞、監督賞、主題歌賞で1位を獲得し、海外メディアが主催する「9TH TRENDING AWARD」では年間最優秀賞をはじめ史上最多の8冠を達成し、2022年を代表するアニメーションとなりました。また本作のアニメは音楽面での評価も高く、アニメ終了後に発売されたアルバム「結束バンド」はダウンロード・アルバム・チャートで売上1位を記録し、Spotifyの「Global Top Debut Album」にも邦楽から唯一ランクインするなど大ヒットを果たしています。
本作の主人公、後藤ひとりは幼少よりいつも「ひとりぼっちな子」であり、いわゆる「陰キャ」である自分に強いコンプレックスを抱えていましたが、中学1年のある日、たまたまテレビで観たロックバンドのアーティストのインタビューに触発されて、バンドをすればきっと陰キャな自分も輝けると思い、早速、父親からギターを借りて練習に猛烈に没頭します。
 
その結果「ギターヒーロー」なるアカウント名で投稿したひとりの動画(いわゆる「弾いてみた」)は動画投稿サイトにおいて絶大な人気を集めることになりますが、その一方で現実世界の彼女は重度の人見知りとコミュ障が災いして、バンド活動や文化祭ライブに憧憬を抱きつつもバンドメンバーどころか友達すら作れないままで中学を卒業することになります。
 
そして高校に入って約1ヶ月たったある日、相変わらず高校でも友達を作れないひとりはギターを持って学校に行きクラスメイトから話しかけてもらうことを期待しますが、結局誰からも話しかけてもらえず「私の居場所はネットだけ」と失意の中で帰宅します。
 
ところが、その帰り道にちょうど助っ人ギタリストを探していた「結束バンド」のドラマーである伊地知虹夏から声をかけられたひとりは、急遽その日のうちにライブハウスで演奏することになり、そのまま成り行きで正式メンバーとして「結束バンド」に加入することになります。この時「結束バンド」のベーシストである山田リョウが名付けたひとりのあだ名が「ぼっちちゃん」です。
 
念願のバンド活動が叶ったぼっちちゃんでしたが「結束バンド」加入後も彼女は従来の人見知りでコミュ障な性格とバンドセッションの経験不足から「ギターヒーロー」としての実力をなかなか発揮することができませんでした。けれども虹夏やリョウ、そして色々な紆余曲折を経て結束バンドのボーカルとなった喜多郁代との交流を通じて、ぼっちちゃんは次第にギタリストとして、そして人として成長していくことになります。
 

* 世界に対する恐怖心

 
ぼっちちゃんのコミュニュケーション能力は壊滅的で、基本的に他人と目を合わせることができず「あっ」というのが口癖で、切羽詰まった場面では顔面が(時には全身が)文字通り崩壊し、何かあるとすぐにゴミ箱とか段ボール箱に隠れる癖があります(初ライブでも「完熟マンゴー」と書かれた段ボール箱の中で演奏しています)。
 
また、ぼっちちゃんは極めてネガティブ思考の持ち主で、自分の容姿や性格や境遇に自信が持てず、クラスでも外出中でもステージでも自分が周囲からどんな目で見られているかを常に気にしており、ひきこもりのニートになった将来を想像しては、よく発作を起こしています。
 
さらに、ぼっちちゃんの「青春」に対するコンプレックスは極めて重症で、彼女はいわゆる「陽キャ」とか「パリピ」などと呼ばれる人間を過剰に敵視し、中学時代の作詞ノートには呪詛のような歌詞が書きつけられ、体育祭のようにクラスが一致団結する学校行事を心底忌み嫌い、今でも一刻も早く高校を中退したいと考えています。
 
こうしたぼっちちゃんの奇行を「三項随伴性」から見てみると「不快な刺激の出現(先行事象)」「不快な刺激の回避(行動)」「不快な刺激の一時的な減少(結果事象)」ということになります(負の強化)。すなわち、トットちゃんの行動クラスが「世界に対する好奇心」に規定されていたとすれば、ぼっちちゃんの行動クラスは「世界に対する恐怖心」に規定されていたといえます。
 
けれども「関係フレーム理論」からみると、ぼっちちゃんにとって多くの刺激は不適応なかたちで機能していたともいえます。果たして結束バンドに加入後のぼっちちゃんはバンド活動における様々な困難に直面する中で「現実は怖い--でも、これからとっても楽しいことが待ってそうな気がする」という台詞が象徴するように様々な刺激機能を制御する「文脈的手がかり」としてのCfuncを徐々に適応的な方向に変化させていくことになります。
 

* 体験の回避から価値ある行動へ

 
その一方でぼっちちゃんは周囲の注目を引くために変な服やアクセサリーを身につけたり、ちょっと褒められるだけで過剰に反応したり、無理やり場を盛り上げようとするなど明後日の方向に張り切っては盛大に自爆したりすることもあります。こうした面でのぼっちちゃんの行動クラスはトットちゃんと同じく、やはり「他者からの承認」に規定されているといえます。
 
そもそもぼっちちゃんがギターを始めたきっかけは周囲からチヤホヤされたいという「他者からの承認」を求める想いからでした。けれども、やがてその想いは「結束バンドを、最高のバンドにする」というぼっちちゃんの生き方を方向づけていく「価値」へと転換されることになります。
 
そして、このような意味での「価値」に重きをおいた第3世代の行動療法が「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」です。ACTではさまざまな心理的・行動的な問題を言語と現実を混同した「認知的フュージョン」が引き起こす「体験の回避」の問題として一元的に捉えます。我々はしばしば「体験の回避」を繰り返しては結果として余計に苦しくなるという悪循環に陥っていますが、こうした「認知的フュージョン」と「体験の回避」からなる悪循環をACTでは「ザ・システム」と呼ばれる様々な「文脈」によって引き起こされるものであるとします。
 
それゆえにACTではまず「ザ・システム」に揺さぶりをかける「想像的絶望」と呼ばれるワークを行い、ここから「エクスポージャー系」「セルフモニタリング系」「行動活性化系」などの技法を駆使して、クライエントが苦しみを回避するのではなく、むしろ苦しみを受け止めて「体験の回避」から「価値ある行動」に踏み出せるよう支援していきます。
 
果たして「結束バンドを、最高のバンドにする」という「価値」を見出したぼっちちゃんはこれまでは「体験の回避」に陥っていたような状況においても、その逆境を乗り越えて「価値ある行動」に踏み出して行けるようになります。ある面で本作(とりわけアニメ化された部分)は理想化されたACTの物語であったともいえるでしょう。
 

* 他人の物語を自分の物語へと読み替えていくために

 
臨床行動分析の背景にある機能的文脈主義は、ある「行動」の原因を「個人」の側に帰責するのではなく、あえて「環境(文脈)」の側に求めた上で、こうした「環境(文脈)」との関係性をレスポンデント条件付けやオペラント条件付けや関係フレームづけといった「学習の原理」を駆使して調整し直していくことで「行動」を変容させていくという考え方から出発しています。
 
実際のところ、我々が日々行なっている「行動」というのはかなりの部分が「環境」に規定されています。ある意味で人は自分のいる「環境」から予測されたパラメーターの集合でしかないともいえます。
 
確かにトットちゃんもぼっちちゃんもそれぞれ「トモエ学園」や「結束バンド」というかたちでこうした意味での「環境」には恵まれていたといえます。けれども、こうした「他人の物語」を「自分の物語」へと読み替えていく上で重要な点は「環境」に恵まれているとかいないなどといった評価ではなく、ある「環境」が登場人物の「行動」にいかなる変容をもたらしていくのかというプロセスの分析にあるのではないでしょうか。そして、このような観点から様々な小説、映画、漫画、アニメ、ゲームといった「他人の物語」を「自分の物語」へ読み替えていく上で臨床行動分析の知見は有効な参照点となるようにも思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

訂正されるコミュニケーション--佐藤俊樹『社会学の新地平』

*「社会学」の誕生とマックス・ウェーバー

 
「社会という秩序はいかにして可能になるか」を考察する「社会学」という学問は19世紀に始まりました。18世紀末に起きたフランス革命はヨーロッパの知識人に二つの革命的な考え方をもたらしました。第一に政治体制や社会秩序は変化するものであり、しかもその変化は例外的なものでも忌避すべきものでもなく、むしろ正常で望ましいものであるという考え方です。第二に政治体制や社会秩序を基礎づける「主権」とは君主でも議会もなく、究極的には人民にあるという考え方です。
 
そして、この二つの考え方は学問の世界に二つの問題を与えました。一つ目は政治体制や社会秩序はどのように、いつ、なぜ変化するのかという変化の様態、速度、根拠を明らかにするという問題です。二つ目は人民がその主権を行使するための意思決定の方法を明らかにするという問題です。こうした問題に答えるべく近代ヨーロッパでは「社会科学」が生まれ「歴史学」「政治学」「経済学」と共に「社会学」はその一角を担うことになります。
 
もっとも、この時代における「社会学」は他の学問の中の一部門という位置づけにありました。例えば「社会学」という言葉の生みの親であるとされ、社会の発展段階を「神学的・形而上学的・実証的」という三段階の法則として定式化したオーギュスト・コントは「数学」を頂点とする学問体系の土台として「社会学」を位置付け、ダーウィンの進化論を応用した「社会進化論」を立ち上げたハーバート・スペンサーは自身の展開する「哲学」の中に「社会学」を位置付けています。
 
社会学が一つの独立した学問領域として認識されるようになるのは19世紀から20世紀の転換期に入ってからです。この時期を代表する社会学者として「機械的連帯から有機的連帯へ」という社会的分業の発展図式を提唱したエミール・デュルケームや「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という有名なテーゼで知られるフェルディナント・テンニェスと共に、宗教社会学、支配社会学、経済社会学法社会学、政治社会学など多方面にわたって画期的な仕事を残したマックス・ウェーバーの名が挙げられます。
 
本書『社会学の新地平』は現代においては社会学というカテゴリーを超えて様々な領域で参照されるウェーバーの理論を切り口として、現代を生きる大多数の人に共通する「この」社会であるところの「産業社会」を読み解いていきます。
 

* 経済学から社会学

ウェーバー1864年プロイセン王国エアフルトに生まれ、幼少から早熟な才能を見せ、15歳で「インドゲルマン諸国民における民族性格、民族発展、および民族史の考察」という論文を書いています。1882年にウェーバーハイデルベルク大学に進学し、その後、シュトラスブルク大学、ベルリン大学ゲッティンゲン大学で法律を学び、1886年には「判事補」の資格を取得して裁判所に勤務しながらベルリン大学で学究生活を続け、1889年に「中世商事会社史論」という論文で法学博士の学位を取得します。こうしてウェーバーはまずは法制史、経済史の研究者としてそのキャリアをスタートさせました。
 
1892年、ベルリン大学の私講師になったウェーバーは社会政策学会から東エルベの農業労働者の調査を依頼され、その調査報告書である「東エルベドイツの農業労働者事情」は学会から高い評価を得ました。1894年にウェーバーフライブルク大学に正教授として招聘され、1895年における教授就任講演「国民国家と経済政策」は良くも悪くも大きな反響を引き起こし、1896年には歴史学派経済学の泰斗カール・クニースの後任としてハイデルベルク大学に迎えられます(ちなみにハイデルベルク大学というのは日本でいえば京都大学のようなポジションです)。
 
ここまでのウェーバーはまさに順風満帆な学者人生を歩んでいるようにも見えます。ところが1897年に彼は父親との確執がきっかけで精神疾患にかかり、大学を休職し数年にわたる療養生活を余儀なくされてしまいます。こうした苦境のさなかで彼は「ロッシャーとクニース、および歴史学派経済学の論理的問題」(1903〜1904)という論文で歴史学派経済学を批判して経済学者から社会学者に転向します。そして、後に社会学マックス・ウェーバーの代名詞となる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904〜1905)という論文もこの時期に発表されました。
 

* 資本主義の精神の誕生--「予定説」をめぐるアクロバティックな論理

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(以下、倫理論文)」の主題は西洋近代社会における「資本主義の精神」の解明であり、その論旨は以下のようなものです。まず同論文は近代資本主義がプロテスタント圏において発達したことから「資本主義の精神」と「プロテスタンティズムの倫理」との間には因果関係が存在するという仮説を提示します。ここでいう「資本主義の精神」とは単なる利益の追求ではなく、自身の職業を神の呼びかけに応じた「ベルーフ(天職)」と見做す倫理であり、ウェーバーはその範例として「時は金なり」という言葉で知られるベンジャミン・フランクリンを取り上げ、その起源をマルティン・ルター宗教改革に見出します。
 
そしてウェーバーによれば「資本主義の精神」を決定付けた契機がジャン・カルヴァンの提唱した「予定説(二重予定説)」です。この「予定説」によれば救済される人間はあらかじめ神によって決定されており、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできません。つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないということです。なおかつ人間は神の意思を知ることができないため自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることも、もちろんできません。
 
そこで「予定説」を信じる人々はどうしたかというと「神によって救われている人間ならば、神の御心に適うことを行うはずだ」という因果の逆転したアクロバティックな論理を生み出して自身のベルーフに禁欲的に励むことで「自分はすでに救われている」という確信を得ようとした、とウェーバーはいいます。
 
このようにウェーバーは「資本主義の精神」の原風景に「プロテスタンティズムの倫理」に規定された「世俗社会の修道院化」を見出していました。しかし、近代化が進展して信仰が薄れた時「資本主義の精神」を消失した「精神なき専門人」や「心情なき享楽人」が跋扈するようになり「この無に等しい者たちは、自分たちこそ人類がいまだかつて到達したことのない段階に到達したのだと自惚れることになるだろう」とウェーバーは述べています。
 

* 社会学における因果と意味

 
このように倫理論文においてウェーバーは「資本主義の精神の成立にはプロテスタンティズムの倫理が決定的な役割を果たしている(少なくとも原因の一つである)」と主張しました。このウェーバーの主張は発表当時から大きな論争を引き起こし、現在でも決着がついていません。しかしながら倫理論文の本当の意義はその「結論」ではなく「問い」の方にあります。
 
ウェーバーは倫理論文で「資本主義の精神の成立にはプロテスタンティズムの倫理が決定的な役割を果たしている(少なくとも原因の一つである)」という仮説を立てることで社会学における二つの大きな問いを開きました。その一つは彼が主張した仮説を裏付けるための「因果(原因と結果の関係)」はどうすれば論証できるのかという問いです。そして、もう一つは社会における「意味(コミュニケーションの効果)」とは何かという問いです。
 
そして、このような「因果」と「意味」をめぐる問いを解くための参照項としてウェーバーは倫理論文でひとつの実在する企業を取り上げています。その企業の名は「カール・ウェーバー&商会」といい、ウェーバーの父方の伯父にあたるカール・D・ウェーバーが19世紀の半ばに創立した会社です。
 
もともとウェーバー家は代々、ビーレフェルトで麻織物商を営んでおり「ウェーバー」という姓もドイツ語で「織り手」を意味しています。亜麻は19世紀初頭におけるプロイセン王国の主要な輸出品の一つでした。ところが1820年代にイギリスやベルギーで機械式の製糸や織物の工場がつくられて大量生産が始まると輸出先を失い、国内でも輸入品との価格競争に巻き込まれることになります。こうした中でウェーバーの伯父であるカール・D・ウェーバービーレフェルト近郊のエルリングハウゼンで「カール・ウェーバー&商会」を立ち上げ、優秀な織り手たちを組織して高品質の製品を作らせて大成功をおさめました。
 
このような「カール・ウェーバー&商会」という組織をウェーバーは同論文において、まさに「資本主義の精神」を体現する存在として描き出し「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」を結びつける環を「カール・ウェーバー&商会」を範例とする近代的な「合理的組織」に見出します。
 
しかしながら、ウェーバー自身はこの近代的な「合理的組織」の内実を十分に捉えることができませんでした。そして、このようなウェーバーが残した課題に一つの解を与えたのが本書がもう1人の主役として取り上げる20世紀後半を代表する社会学者の1人であるニクラス・ルーマンによる組織システム論です。
 

* ニクラス・ルーマンの組織システム論

 
ルーマンは1927年にドイツ北部ニーダーザクセン州のリューネブルグで生まれました。高校在学中に第二次世界大戦に従軍し捕虜になっています。復員後、ほぼ半世紀前にウェーバーが在籍していたフライブルク大学で法学を学び、26歳の時にウェーバーと同様に判事補の資格を取り、長らく行政官僚として働いたのちに40歳を前に社会学者へと転身し、ウェーバー家の故郷にあたるビーレフェルトに新設された大学の教授となります。その後、ルーマンは「カール・ウェーバー&商会」の本社と工場があったエルリングハウゼンに移り住み、そこで亡くなっています。
 
このようにルーマンの人生は何かとウェーバーと縁深いものがありますが、何より重要な共通点としてルーマンもまたウェーバーと同様に産業社会の基幹である近代的な「合理的組織」を重視した社会学者であったということが挙げられます。
 
もっとも、ウェーバーは近代的な「合理的組織」を「職務」の階統的な集合としての「官僚制」と位置付け、上位者の「決定」に下位者が従属する構造として捉えていました。こうした組織においては現場に近づけば近づくほど裁量の余地はなくなり、下位者は上位者の指示通りに振る舞うしかなくなり、その結果、組織の置かれた環境(市場など)の急激な変動に対する柔軟な対応が難しくなります。これに対してルーマンハーバート・サイモン経営学理論を参照し、近代的な「合理的組織」を様々なステークホルダーによる水平的な協働を可能にする「決定」のネットワークとして捉え直しました。
 
この点、サイモンは単に時間的に「前の決定」が「後の決定」を方向づけるという形で決定の連鎖を考えていましたが、ルーマンはさらに「合理的組織」においては「前の決定」が「後の決定」を方向づけるだけではなく「後の決定」がその解釈を通じて「前の決定」を意味づけなおすことになると考えました。その後、彼はこうした「決定」のネットワークをシステムにおける要素がさらに新たな要素を産み出していく「オートポイエーシス(自己産出系)」という概念を中核とするコミュニケーションシステム論へと発展させていくことになります。
 

* 訂正されるコミュニケーション

 
このようなルーマンの考える「決定」のネットワークはコミュニケーションにおける「訂正可能性」の論理から捉えることができます。人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
 
そして、このようなコミュニケーションの中でルールが絶えず「訂正」されていく現象を東浩紀氏はルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照して「訂正可能性」という名で理論化しています。

 

 

 
すなわち、子どもの遊びにおいて「かくれんぼ」が「鬼ごっこ」にいつのまにか変わってしまうように、ルーマンのいう「決定」のネットワークもまた「前の決定」が「後の決定」によって「じつは」と訂正される契機を孕んだものとなっているという点で、東氏が「訂正可能性」と呼ぶコニュニケーションの本質からまっすぐに導かれるものであるということです。
 
こうした意味で本書は社会学を学ぶ上では避けては通れない古典である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読み解く上でアクチュアルな視座を提示する一冊であると同時に、現代において誰もが何らかの形で不可避的に関わることになる「この」社会におけるコミュニケーションの本質を考えるための一冊であるともいえるでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

自己治療としての批評--岩川ありさ『物語とトラウマ』

* トラウマという領域

 
戦争や災害や事件や事故といった出来事はしばし人のこころに「トラウマ」と呼ばれる深い痕跡を残します。従来、トラウマをめぐる研究は精神医学、心理学、文化人類学当事者研究といったさまざまな学問領域において多角的な視点から行われてきましたが、1980年にアメリカ精神医学会が『精神障害の診断・統計マニュアル第3版(DSM-Ⅲ)』に追加したPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)というカテゴリーはトラウマ研究において大きな転機となりました。
 
PTSDの主な症状としては⑴再体験ないし侵入(外傷的な出来事がイメージ・思考・知覚の形で反復的かつ侵入的に想起されること)⑵回避ないし鈍麻(外傷的な出来事に関連する物事を避けようとしたり興味を感じなくなったりすること)⑶過覚醒(睡眠障害、注意集中の困難、過剰な警戒、極端な驚愕反応)があげられます。これらの症状は再体験が起こるがゆえに、それを避けようと回避が起こり、回避を達成するために過覚醒に陥ってしまうという関係に立っています。
 
なおPTSDの原因は単回性の出来事のみならず反復性の出来事(例えばいじめや虐待など)が外傷となる場合もあります。その場合はべセル・ヴァン・デア・コルクらのいう「複合性PTSD」 やジュディス・ハーマンのいう「複雑性PTSD」に相当し、しばしば自傷や解離、慢性抑うつを伴うことが知られています
 
このPTSDという概念は日本においても1995年の阪神淡路大震災をきっかけとして広まり、今日においてトラウマという言葉はPTSDと強く結びつけられて理解されることが多くなりました。日本においては「心的外傷後ストレス障害」と訳されるPTSDはトラウマがもたらす苦しみを直感的に理解する上で有益な一面があることは疑いありませんが、しかしその一方でトラウマという言葉にはPTSDというカテゴリーには回収しきれない広がりが含まれています。
 
そして、このような広がりを持つトラウマという事象に対して文学の言葉はいかに向き合えるのかという問いを正面から受け止めて真摯に答えようとする一冊が本書『物語とトラウマ』です。
 

*「語りえぬもの」が語り出されるとき

本書は「心に傷を負う経験をした人びとにとって、文学や文化は生きのびるための表現となりうるのか」というひとつの問いから出発し、個人的な心理や病理に還元されがちなトラウマの問題を社会的、文化的、歴史的な事象との結びつきの中で捉え、臨床知と人文知を架橋する学際的な視点から現代日本文学を読み解いていく批評の試みです。
 
この点、精神医学や精神分析や臨床心理といった領域においては「語りえぬもの」としてのトラウマを個人の生の中に位置付けていくため自由連想法箱庭療法、絵画療法、プレイセラピーなどさまざまな技法が模索されてきました。こうした臨床における営みの中で「語りえぬもの」が語り出されるとき、そこには「物語」が生み出されることになります。
 
本書のいう「物語」とは個人の生を形作ると同時に縛り付ける枠組みでもある一方で、個人の生を規定しようとする支配的な物語のあり方を解きほぐすよりどころでもあります。そして人生のそれぞれの段階において「物語」の受け止め方は変化して、その都度新たな読み方の可能性が生まれ、それまで支配的だと思っていた物語のほつれ目に思いもよらない手がかりを発見することもあり、終わることのない読む行為のさなかで時代や社会との接点を見つけることではじめて浮かび上がる言葉があると本書はいいます。
 
このような観点から本書ではフェミニズム批評やクィア批評を手がかりとして大江健三郎氏や多和田葉子氏をはじめとする9人の作家たちの小説が論じられることになります。この点、岩川氏は「トラウマとともに生き、物語を読むことは自らのトラウマとの出会いなおしであり、再び、危機へと直面する経験でもある。それでも、私は、読むことを通じて、自分では言葉にできない記憶と向き合わざるをえなかった」といい、本書は「解釈と自伝的な要素」が結びつくところで生まれる「自伝的な研究」とならざるを得なかったと述べています。こうしたことから本書にはトランスジェンダー当事者としての視点や過去にいじめや性暴力被害を受けた経験などが反映されています。
 

* 語りかけと応答のあいだで--フェミニズム批評

 
まず本書における議論を支える大きな柱の一つがフェミニズム批評です。1960年代の女性解放運動と連動する形で醸成されてきたフェミニズム批評は性差別を鋭く暴き出す批評として登場しました。もっともその立場や目的によってフェミニズム批評の方法論は多岐にわたり、その一つとして男性作家が書いた作品を女性の観点から見直し、男性による女性の抑圧がいかに反映されているか、あるいは、家父長制的なイデオロギーが作品を通していかに反映されているかを明らかにするという方法論があります。
 
これに対して女性の書いた作品を研究対象とする立場が「ガイノクリティックス」です。その目的は男性中心に形成されてきた伝統的な文学において黙殺されてきた女性作家の作品を発掘したり再評価する点にあります。また1970年代〜1980年代フランスのフェミニズム批評においては精神分析的見地から女性と言語との関係に注目し、女性作家の作品がいかに女性特有の言語で書かれているかが論じられてきました。
 
そして本書もショシャナ・フェルマンやエレイン・ショウォールターといった先達の言葉を引きフェミニズム批評が文学研究にもたらした革命性を高く評価しつつ、その上でフェミニズム批評を「語りかけ」と「応答」という相互行為のなかで生成される批評実践として捉え、そこには言葉や表現によって差異のある人々が作り出す暫定的な共同性を生み出してゆく批評があるといいます。
 
フェミニズム批評が明らかにしてきたように文学研究は長らく西洋中心主義、異性愛中心主義、シスジェンダー中心主義、健常者中心主義などに規定され、その中でレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーの女性たち、第三世界の女性たち、有色人種の女性たち、障害を持った女性たちは周縁的存在とされてきました。けれども、こうした多様な女性たちが「語りかけ」「応答する」という連続性や過程の中でこそ、新たに言葉が生まれ、物語が生まれるという点を本書は強調しています。
 

* 叛逆する物語--クィア批評

 
さらに本書の通奏低音にはクィア批評があります。日本語では「変な」「奇妙な」などと訳される「クィア」という言葉は、もともとは英語圏でゲイ男性に向けられた蔑称でしたが、やがて当事者たちによって戦略的に用いられるようになり、現在ではセクシュアル・マイノリティと呼ばれる当事者全体を包摂する意味を帯びるようになります。
 
このような意味での「クィア」の特質を理解するうえで重要なことは、当初からその考え方のなかに「差異の主張(セクシュアリティ/ジェンダーをめぐるあらゆる二項対立においてマイノリティ側に置かれた当事者の主体化)」と「普遍性に基づく連帯(セクシュアリティ/ジェンダーをめぐるあらゆる二項対立そのものの脱構築)」という相矛盾する二つの指向性を胚胎させていたという点です。
 
こうした視座から、これまでクィア批評は性、身体、欲望をめぐるさまざまな社会的な規範を問い直し、テクストの中に散りばめられたクィアな生存の可能性を掴み取り、特定の生が不当な扱いを受けたり、生存をおびやかされ死にさらされるような社会的状況や条件を問い直してきました。本書もまた村山敏勝氏の「クィアする」という言葉を引き、クィアに読むこととは異性愛中心の解釈に動的に介入し、別の解釈を見出そうとする実践であると同時にクィアという言葉が持っているのは、既存の規範を問い直し、規定された物語に逆らい、別の物語の可能性を断固として主張するような読み方であると述べます。
 

* 前未来形の文学

 
精神科医中井久夫氏はトラウマ的な記憶(外傷性記憶)について「静止的」で「鮮明性」で「感覚性」がある一方「文脈が不明」で「言語化が困難」であり「反復出現」するといった特性をあげています。このような断片化された記憶としてのトラウマを語るとき、どのような「時制」で語るかが重要となります。例えば過去が完了しないまま回帰してくるトラウマは単に「した」という「過去形」のみでは語りえないということです。
 
トラウマ的な記憶はそれを想起し語ることができるようになって初めて、これは自分にとって深い心の傷であったと了解できるような事後性があります。換言すればトラウマについての語りは未来において自らに起きた出来事がトラウマであったと了解し、把握することができるようになってはじめて過去になるということです。
 
そこで本書は「予感」「徴候」「余韻」「索引」という中井氏の示す世界の織りなされ方と時の移り変わり方を変奏し、トラウマを負った人が見ている世界の語り方のひとつとして「前未来形」を見出しています。ここでいう「前未来形」とは「未来のある時間に完了するであろう行為」を表現するフランス語の文法用語であり、今はないが未来には完了しているものごとを表現しうる時制です。
 
この点、クィア批評を代表する思想家の1人であるジュディス・バトラーは『戦争の枠組--生はいつ嘆きうるものであるのか』(2009)でロラン・バルトジャック・デリダの議論に応答する形で「生がはじまり維持されるための条件」として「この生は、将来において、すでに生きられた生となるだろう」という未来形と完了形が重なり合う「前未来形」が前提とされなければならないといいます。
 
そして「前未来形」は「Aが起こればBが起こる」という従属節が主節の条件となる形で記されることが多いことから本書は「この生は、将来において、すでに生きられた生となるだろう」というバトラーの言葉が可能になるのは「医療保険、公教育、住宅、食料の分配と入手可能性の解決策」などの様々な社会的・経済的条件が満たされていなければならないとして、現在の新自由主義的な政治経済体制においてこのような従属節としての社会的・経済的な条件は破壊的な打撃を受けており、生は「不安定性」のただなかにあると述べます。
 
すなわち「前未来形」の文学とは未来のある時点でトラウマ的出来事を生き延びたものが過去の自分と出会い直すような時間の表現であると同時に、その生が生きられるための社会的・経済的な条件の回復される必要性を示すものであるということです。
 

* 自己治療としての批評

 
本書はトラウマ的な出来事をめぐる新たな対話の回路を見出していくための批評の試みです。この点、岩川氏は「本書で行いたいのはまさに、研究の言葉、理論の言葉を自伝的要素とつなぐ転換であり、そのためには、自伝的要素と批評や研究を切り離さないことが重要だということである」としつつ「しかし、私は、読むこと、批評することを何よりもしたいのだ。小説と向き合うことで、自分の人生の局面を切り開くような読みの可能性を提示したいのだ」と述べ、本書を「自伝的クィアフェミニズム批評」と位置付けています。
 
かつて村上春樹氏は河合隼雄氏との対談の中で「小説を書く」ことは「自己治療的な行為」になると述べていますが、おそらく「小説を読む」こともまた同様に、読み手がテクストの中に「語りえぬもの」を語るための言葉を見出すことによりトラウマの記憶の中から--まさに「自分の人生の局面を切り開くような読みの可能性」としての--自身の物語を紡ぎ出していく「自己治療的な行為」となりうるでしょう。そして、こうした自己治療的な切り口から小説に向き合う「批評」という営みを行うにあたり、本書は確かな道標を示してくれる一冊であると思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「正しさ」をめぐる思考実験--九段理江『東京都同情塔』

*「訂正」される「正しさ」

 
批評家の東浩紀氏は近著『訂正する力』(2023)において過去との一貫性を主張しながらも実際には過去の解釈を変えて現実に合わせて変化する力としての「訂正」の論理の重要性を説いています。人間の行うコミュニケーションには奇妙な性格があります。たとえば子どもが遊んでいるとして、その遊びが「かくれんぼ」だったのがいつの間にか「鬼ごっこ」になり、またそれがいつの間にか別の遊びになっているといったことはよくある話です。
このようにルールが絶えず「じつは」というかたちで「訂正」され続けていく現象は子どもの遊びのみならず人間の行うコミュニケーション全般において見られます。東氏はこのようなコミュニケーションにおける特性をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキ言語哲学を参照することで「訂正」の論理として理論化しました。
 
そしてこの「訂正」の論理は社会における「正しさ」にも例外なく適用されます。周知の通り現代は社会のあらゆる領域において「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」が重視される時代です。もちろん「正しさ」を求めることはとても大切なことですが、その一方でいまや「正しさ」がまさに他者を「糺す」ための道具としてやや安易に利用されている観も否めません。
 
ところで「コレクトネス」という言葉は「コレクト」という動詞の名詞形ですが、この「コレクト」は「校閲する」とか「まちがいを正す」などといったまさに「訂正」を意味する言葉です。すなわち、現在の「コレクトネス=正しさ」とは普遍的な規範などではなく、常に「コレクト=訂正」という運動の中で生み出された暫定解でしかないということです。
 
そうであれば今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれません。こうして常に「訂正」されていく「正しさ」が今後向かっていくかもしれないひとつの可能性を思弁する一冊が第170回芥川賞を受賞した九段理江氏の『東京都同情塔』です。
 

*「シンパシータワートーキョー」から「東京都同情塔」へ

 

 

本作の舞台はそう遠くない未来の東京です。本作の主人公である新進気鋭の建築家、牧名沙羅は2030年に新宿御苑に完成予定の巨大刑務所のデザインコンペに参加するための構想を練っていました。その巨大刑務所は収容者が快適かつ幸福に暮らせるという奇妙なコンセプトを掲げていました。しかし沙羅はその奇妙なコンセプト以上に「シンパシータワートーキョー」という刑務所とはとても思えないリゾート施設めいた名称に強烈な違和感を覚えていました。
 
様々な方面で何かと「正しさ」や「配慮」が求められる風潮においては語感がマイルドになり角が立ちづらいカタカナは便利な文字です。本作が描く世界では現実以上に様々な領域でカタカナによる言い換えが氾濫しています。例えばこの世界における犯罪者や服役囚は「(不憫な境遇から)同情されるべき人々」という意味で「ホモ・ミゼラビリス」と呼称されています。そして彼ら彼女らを収容することになる巨大刑務所「シンパシータワートーキョー」という名称も同様の発想から生まれたものでした。
 
そんな折、彼女が缶詰となっている都心のホテルを訪れた15歳年下のボーイフレンドである拓人は建設プロジェクトの関係資料を偶然目にして「シンパシータワートーキョー」を「東京都同情塔」という言葉に何気なく言い換えます。そして、沙羅は「東京都同情塔」という言葉に強く惹かれ「語の構造はシンメトリーだし、音的にも綺麗な韻を踏んでいて、刑務所にふわさしい適度な厳しさも含んでいる」ことから、これから建設されるタワーの名称は「東京都同情塔」こそふさわしいのではないかと思うようになります。
 
本作では東京オリンピックが当初の予定通り2020年に開催されており、現実には〈アンビルド〉になったイラク出身の女性建築家ザハ・ハディド氏が設計した新国立競技場も建設されています。そして、この競技場と高層タワーの対比が物語の一つの軸を成しています。
 

*「ホモ・ミゼラビリス」なる人々

 
本作の世界観の枢要部にあるのは「ホモ・ミゼラビリス」という架空の概念です。本作において「ホモ・ミゼラビリス」とは社会学者にして幸福学者のマサキ・セトが提唱した比較的新しい概念とされており、彼は著書『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』において従来「犯罪者」と呼ばれ差別を受けてきた属性の人、また刑事施設で服役中の受刑者、非行少年を指して、その出自や境遇やパーソナリティについて「不憫」「あわれ」「かわいそう」といった同情的な視点を示し、彼らを「同情されるべき人々」つまり「ホモ・ミゼラビリス」として再定義しています。
 
またセトは従来の意味における「非犯罪者」を「幸せな人々」「祝福された人々」を意味する「ホモ・フェリクス」と定義し、彼らが自らの特権性を自覚する必要性を主張し、社会的な立場や属性による偏見や差別を考えるきっかけを提供したとされます。
 
そして、これらの新しいパースペクティヴは単に犯罪行為だけではなく社会全体に対する意識改革を促す重要な要素であり「誰ひとり取り残されないソーシャル・インクルージョン」と「ウェルビーイングの実現」に欠かすことができないと、本作では説明されています。
 

*「正しさ」をめぐる思考実験

 
果たして『ホモ・ミゼラビリス 同情されるべき人々』は若年層を中心に支持を集め、同書の構想に基づき「シンパシータワートーキョー」の建設プロジェクトが立ち上がることになります。そしてセトはタワーの建設を受けて公刊された同書の『完全版』において犯罪者に厳しい処罰を望む人々やタワーの建設プロジェクトに反対する人々に向けて「なぜ、あなたは「犯罪者」ではないのか?」と問い、私やあなたがこれまで「犯罪者」にならずに済んでいるのは、私やあなたが素晴らしい人格を持って生まれたからではなく、たまたま素晴らしい人格を育むことが可能だった環境にいたからにすぎず、あなたがこれまで罪を起こさずクリーンに生きてこられたのはあなたの幸福な特権のおかげに他ならないといいます。
 
その一方でセトは世の中には特権を持たずに生まれてきた人がたくさんいて、良いことをしても誰からも褒められず、むしろ生まれてきたことを否定されながら大人になる人々がいて、そのような人たちは「報酬系」と呼ばれる脳の神経ネットワークが正常に育っていないことから、幸福な未来を想像できず、守るべき幸福がないため罪を犯すハードルが恐ろしいほど低いとして、彼らは「犯罪者」「加害者」である以前に「元被害者」であるケースが圧倒的に多いと主張します。こうしたことから彼は「そんな彼らとあなたが、同じ世界の、同じ法律/ルールのもとで、同じHomo(人種)として生きていかなければならないというのは、あまりにもアンフェアで、残酷な仕打ちではないでしょうか?」と述べています。
 
確かにリベラルな論理を純粋なかたちで徹底していけば、このような主張も少なくと思弁することは不可能ではないでしょう。正義が勝つとは限らない。努力が報われるとは限らない。想いが通じるとは限らない。人生は所詮は出来の悪いガチャでしかない。世界はそういうふうにできている。このような格差原理的な観点からすればもしかして現在において犯罪者と呼ばれる人々は将来において「じつは」この社会からひどい仕打ちを受け続けてきた被害者であり救済されるべき存在なのであるという思想が出てきてもまったく不思議ではなく、こうした思想が主流となった時代において「いや、それでも犯罪は犯罪だ」という主張はただちに大勢から「ホモ・ミゼラビリスの気持ちを考えろ」とか「意識をアップデートしろ」などと激しく糾弾されるかもしれません。
 
このような「正しさ」がまかり通る社会は現代の「正しさ」に照らせば到底容認できないディストピアでしょう。けれども「正しさ」が普遍的なものではなく常に「訂正」に開かれている概念である以上、今この時の「正しさ」も5年後には「間違い」になるかもしれないし、逆に今の「間違い」が「正しさ」になるかもしれないということです。こうした意味で本作は「正しさ」をめぐる思考実験をラディカルに追求する文学実践であったともいえるでしょう。
 

* AIの言葉と人間の言葉

 
本作は受賞記者会見での九段氏の「全体の5%ぐらいはおそらく生成AIの文章をそのまま使っているところがある」という発言が話題となりました。例えば次の文章の一部には生成AIの文章が含まれていると九段氏はいいます。
 
Sara:【君は、自分が文盲であると知っている?】
 
AI-built:【いいえ、私はテキストベースの情報処理を行うAIモデルですので、文盲ではありません。
そして「文盲」は、侮辱や軽蔑の意味合いを持つ可能性のある差別的表現です。相手を傷つける可能性があるため、使用を避けるべきです。この言葉を使うことで、他人の能力や知識を軽視したり、尊重しない態度を示すことのないよう配慮しなければなりません。(以下略)】
 
(『東京都同情塔』より)

 

九段氏によればこの文章におけるAI-builtの回答の最初の一行目が九段氏の質問に対してChatGPTが実際に出力した回答であり、後に続く文章は創作だそうです。また九段氏は本作のプロットも生成AIとのやりとりから生まれたといいます。九段氏がChatGPTに「『刑務所』という名称を現代的な価値観に基づいてリニューアルしたいです。どのような案が考えられますか?」と質問したところ『ポジティブリカバリーセンター』『コミュニティリユースセンター』『セカンドチャンスセンター』などほとんどがカタカナを使った外来語風の言葉が回答として返ってきたそうです(「シンパシータワートーキョー」はオリジナルの造語だそうです)。そして九段氏はこのカタカナの外来語だらけの回答を受けた際に感じた違和感が「軽いことばのはん濫が社会をゆがめている」という本作のプロットのヒントになったといいます。
 
 
本作のAIに対する態度は極めて両義性を帯びています。沙羅はAI(文章構築AI)を「体言止めで話しかけてもスルーしないのが文章構築AIの好きなところだ」「彼はいじらしいほど懸命に、文章を積み上げていく」と愛でる一方で「訊いてもいないことを勝手に説明し始めるマンスプレイニング気質が、彼の嫌いなところだ」「いくら学習能力が高かろうと、AIには己の弱さに向き合う強さがない。無傷で言葉を盗むことに慣れきって、その無知を疑いもせず恥じもしない。人間が「差別」という語を使いこなすようになるまでに、どこの誰がどのような種類の苦痛を味わってきたかについて関心を払わない。好奇心を持つことができない。「知りたい」と欲望しない」と突き放したりもします。
 
九段氏はAIが生成する言葉と人間が紡ぎ出す言葉の違いについて「現在のところ、AIが発する言葉と人間の発する言葉の違いは、『相手との関係性の中で初めて生まれる言葉があるのが人間』だと思います」と述べています。今後、ますます進化を遂げるであろう「AIが発する言葉」は「人間の発する言葉」の固有性を良くも悪くも様々な局面で問い直していくことになるでしょう。そして、それは突き詰めれば「人間」とは何かという問いに行き着くことになるでしょう。こうした意味で本作は常に「訂正」され続ける「正しさ」の可能性を描き出すと同時に、やはり常に「訂正」され続ける「人間」のあり方を問いに付す一冊であったように思えます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

差異と反復の詩学--最果タヒ『十代に共感する奴はみんな嘘つき』

* 差異と同一性

 

通常、人は「同一性(おなじもの)」を基準としてそこから逸脱したものを「差異(ちがうもの)」として位置付けます。このような意味で人の経験は「同一性」なくしては成り立ちません。しかし実際の経験の流れの中に身を浸してみると、事物の組成にせよ言葉の意味にせよ、世の中のあらゆる事象は常に同一ではなく変転してやまないことに気付かされることになります。すなわち「同一性」とはこのような事象の変転をある時点で便宜上切り出した断面であり、それはある種の理念でありフィクションに過ぎないものです。
 
「同一性」の手前には微細な「差異」の蠢く世界があるということ。およそ世界の中で何一つ同じものとしてとどまるものはないということ。こうした観点から「同一性」と「差異」の二項対立は「差異そのもの(あるいは差異そのものを内在する仮固定的な同一性)」へと脱構築されることになります。では言葉はこうした「差異そのもの」を捉えることができるのでしょうか。この点、ゼロ年代以降の現代詩シーンをリードする詩人、最果タヒ氏は「わからないぐらいがちょうどいい(『きみの言い訳は最高の芸術』所収)」というエッセイにおいて次のように述べています。
 
言葉は、気持ちや事実を伝えるために生まれた言葉だ。人によってちょっとずつ違うものを、簡略化して、互いに理解できる形に変える。そういう、とても大切な道具。とても、危なっかしい道具。言葉にするだけで、簡単にいろんなことが切り捨てられていく。その人だけの、ささいなこと、あいまいなことが、四捨五入みたいに消えていくんだ。どこまでも意味と紐づいているからこそ、使うだけで、言葉はその人だけの感情を押しつぶして少しずつ消していく。そして、それでも私は、言葉を書く仕事をしている。
 
(『きみの言い訳は最高の芸術』より)

 

最果作品の特徴は一般的でありきたりな言葉から逃れていくような「過剰な何か」を刺し止めていく極めて特異的な文体にあります。換言すれば、それは「互いに理解できる形」としての言葉が持つ「同一性」の手前にある「人によってちょっとずつ違うもの」「ささいなこと、あいまいなこと」としての「差異」の蠢く世界を、やはり言葉によって掬い=救いだそうとする試みであるともいえます。こうした意味で本作『十代に共感する奴はみんな嘘つき』は最果作品の核心部をなす「同一性」と「差異」のせめぎ合いを思春期のこころの揺らぎに託して真正面から描き出した小説であるといえるでしょう。
 

* 十代という季節

感情はサブカル。現象はエンタメ。
つまり、愛はサブカルで、セックスはエンタメ。
私は生きているけれど、女子高生であることのほうが意味があって、自殺したどっかの同い年がニュースで流れて、ちょっと羨ましい。パスタが食べたいけどお金がないから、家でミートソースばかり作ってもらって食べている。バターを節約したパスタはちょっとだまになって食べづらい。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

本作の主人公である高校生、唐坂和葉(カズハ)は常に周囲の環境に違和感を持ち、他者や世界に対して過剰な反発心を抱いています。カズハは他者との関わりの根拠を「愛」を範例とする「感情」と「セックス」に象徴される「現象」という二項対立に還元した上で「感情」をもとに行われるコミュニケーションを極度に唾棄する思考の持ち主であり、なかでも「共感」は彼女の中でどこまでも否定すべきものとみなされています。
 
誰がこのまえ好きな先輩に告白したとか、誰がこのまえテストでカンニングして見つかったらしいとか、そういう話をだらだら聞いて、私はひとり電車が過ぎ去っていくのを見ていた。乗らないの、とかきいてはいけない。このホームでベンチに座って団子食べて語り合うのが青春であって、かけがえのない時の流れなんだから。鴨川のそばにすわって臭くはないかもしれないけど水の匂いを嗅ぐカップルを馬鹿にはできない。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

カズハは同級生男子への告白をめぐるいざこざがきっかけでクラスの女子達からハブられてしまいますが、その一方でカズハから告白された(そして次の瞬間に振られた)当事者の「沢くん」は逆にカズハの独特のキャラに興味を持ち、何かと絡んでくるようになり、ここにカズハのクラスで孤立している「初岡」という女子が巻き込まれます。こうして本作はカズハ、沢くん、初岡という三者間が織りなすまったく噛み合わないコミュニケーションの様相を繊細かつ鋭い筆致で紡ぎ出していきます。
 
そんな折、京都の大学に7年間在籍しているカズハの兄が唐突に恋人と、さらに彼女の浮気相手である兄の親友を連れて帰ってきます。カズハの沢くんへの意味不明な告白の裏には兄に対して抱く複雑な感情があったようです。果たして兄の恋人(カズハいわく「ビッチ」)の浮気は自殺しそうな兄の親友を救うためという事情があり、彼女と結婚するという兄の言葉にカズハは激しく動揺します。
 

* 感情と共感

 

ビッチのやることは理解ができた。親友を救うために、愛を用いようとしなかった彼女を信頼できるとすら思った。私は愛なんて、セックスなんてわかんないけどそう思ったのだ。セックスでなんとかしようとしたならそれは、愛よりも筋の通った手段。感情ではなく現象だから。未来からも永遠に観測できる存在だから。愛は、消える、見えなくなる。あったのかすら、きっとおぼろげになってしまう、たぶん。それなのに結婚とかいう愛でビッチとの関係をつなぎ止めようとするお兄ちゃん。「愛じゃない、結婚だよ」とか言って「それに性行為はただの現象じゃないよ。そこには快楽がつきまとうだろ」とか言って。私の考えていることはわかるくせに「結婚」にはかたくなだから、私が見えていないものもふくめて全部、兄にだけ見えているのかもと思うとつらい。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)

 

なぜカズハはこうまで「感情」や「共感」を拒絶するのでしょうか。まず、そもそも「感情」とは言葉によって生み出されるものです。これに対して言葉以前に湧き上がる身体的、現実的な正体不明の感覚を「情動」といいます。このような「情動」は帰属主体が不明確であり、送り手と受け手が明瞭に分かれておらず、志向性を持っていません。つまり「情動」において伝播は直接的なものであるということです。
 
しかし、やがて人は言葉を習得する過程で自身の「情動」に名前をつけていくことになります。こうして「情動」の持つ強度は縮減され「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉に分節された「感情」という同一性の中で処理されることになります。このような「感情」は帰属主体が明確であり、送り手と受け手が明瞭に分たれており、志向性を持っています。つまり「感情」において伝播は間接的なものとなるということです。
 
こうしたことから送り手と受け手の「感情」が同じであるという保証はどこにもないわけです。例えば送り手の「悲しい」という感情はそのまま受け手に伝わるわけではなく、受け手では、まず「彼女が悲しんでいる」という認知が生じ、ここから「いったい何があったのだろう」「やれ困ったな」「私がさっき言ったことがよくなかったのだろうか」「どうしてあげたらいいんだろう」といったさまざまな思考が派生し、その中から最適解と思われる応答を送り手に送り返すことになります。
 
こうしてみると送り手から発信された「感情」を受信した受け手が行う一連のプロトコル(約束事)としての「共感」とは「感情」に照準をあてる限りで、常にその「同一性」の手前にある「差異」を取り逃がしてしまう側面を持っているともいえます。すなわち、カズハの抱える感情や共感に対する苛立ちとは、畢竟「同一性」に対する「差異」の苛立ちであるともいえるでしょう。
 

*〈私〉という自我の断片性

 

さらに、このような「共感」は〈私〉という同一性へ向けられています。しかしその共感の対象となる行為主体は論理的には常に「過去の〈私〉」であって「現在の〈私〉」ではありません。この点、本書のあとがきで最果氏は次のように書いています。
 
私は、今の私以外何一つ自由にはできない。過去の私は、正しくは私ではない。もう、とっくに他人になった。理解なんてできるわけもなく、コントロールできるわけもなく、コントロールもできるわけがなく、今さら懐かしいとか嫌いとか好きとか、思うことすら図々しくて、私はきみとは無関係だと、過去の私はまっすぐに私に伝えてくる。
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』あとがきより)

 

この点、いぬのせなか座氏は「最果タヒ全単行本解題(『ユリイカ』2017年6月号所収)」において本作におけるカズハの徹底した共感の忌避は、過去から現在、未来に至る自己の連続性を欠いた私、そのつど固有のバラバラに点在する私というあり方を、作品内部におけるカズハの暴力的なまでの否定の意志と、それを携えて交わされる他者との関係によって描き直す試みなのだといいます。
そして、物語終盤でカズハが友人たちに「つながり」を感じ、そうした「つながり」が実現された「いま・ここ」に、かけがえのなさを抱く本作の結末は彼女の心理的な成長を印象付ける場面と読める一方で、それがカズハ自身の過去にも未来にもつながりえない(だからこそ、かけがえのない)固有の瞬間として経験されたという感覚を我々に与えてくれるのではないだろうかと述べています。つまり、ここでは〈私〉という自我は連続したものではなく徹底して断片的なものとして捉えられているということです。
 

* 否定する自我

 
そして、このような断片的な自我のありようを千野帽子氏は「自我は風船か、それとも免疫機構か(『ユリイカ』2017年6月号所収)」において「否定する自我」として捉えています。つまり、最果作品においてはアプリオリな「自我」が先行して、それが何か外のものを拒絶するのではなく、何か情報の入力に抵抗する免疫機構として瞬時に発話主体の「自我」というものが立ち上がるということです。その例としての千野氏は次のようなフレーズを挙げています。
 

ゆめとか思い出とかそういう言葉で語りたいなら語ればいいけど、でも絶対その瞬間、何かが永遠に思い出せなくなるだろう。十七歳とはそういう季節だ。都合良く記憶を改竄した大人による解釈じゃ、絶対一生消化はできない。

 

(『渦森今日子は宇宙に期待しない。』あとがきより)

 
ここでは〈一七歳〉という〈季節〉を〈ゆめとか思い出とかそういう言葉で語りた〉がる〈都合良く記憶を改竄した大人〉の〈解釈〉を出した上で、そのようなものでは〈一七歳〉という〈季節〉を〈絶対一生消化はできない〉と否定しています。すなわち、このような否定の機構が最果作品における自我を構成しているということです。
 

* 差異と反復の詩学

 
こうした意味で『十代に共感する奴はみんな嘘つき』というタイトルを戴く本作はこのような最果氏の「否定する自我」をずばり体現する作品といえるでしょう。つまり本作においては〈十代に共感する奴〉という第三者的存在を措定した上でこの第三者的存在を〈みんな嘘つき〉と否定し、ここで立ち上げられた「否定する自我」を反復するかのようにテクストが紡がれていくことになります。
 
そして、自我というのはもともとだれでもそういう成り立ちをしているのではないだろうか、と千野氏は述べます。確かに、少なくともポスト構造主義以降の哲学はこのようなかたちでの自我の生成を問題にしています。例えば「差異」の持つ固有性を追求した思想家として知られるジル・ドゥルーズは主著の一つである『差異と反復』(1968)において〈私〉という自我を自明の前提とせず「差異」が「反復」することで自我が立ち上がるプロセスを「現在」「過去」「未来」という三つの位相からなる「時間」として論じています。
すなわち、ドゥルーズによれば〈私〉という「同一性」は「差異」が「反復」する効果として生じることになるわけですが、この単なる効果に過ぎない〈私〉という「同一性」が一旦成立するやいなや、直ちにそれがあたかも「差異」に先行する自明の前提であるかの如き転倒が生じることになります。
 
本作が暴露するのはまさしくこうした転倒であり、その意味で本作は「差異」が「反復」することで〈私〉というまとまりがいかにして生成されていくかという存在論的なプロセスを繊細かつ鋭い筆致で記述し尽くしていく、いわば差異と反復の詩学というべき作品であったといえるでしょう。
 
兄のこと、まだ好きだ。たぶんずっと好き。背中がちょっと広くなった気がして、私より、ビッチが大事だったりするのかな、なんてすねたくもなって、でも、それでも兄が好きだ。つめこまれるよね、吐き出したくなるよね、形がどんどん変わるよね。私の知らない7年間を溜め込んで、そうして生き延びてきた兄のこと、私は愛おしいと思う、頑張ったねって言いたい、また会えたねって喜びたい。嫌いになるわけがなかったんだ。変わっていく。変わって、それでも、私だけは変わりたくないって思う。みんな愛してくれる。変わったって愛してくれる。そのことに慣れたくない。傷つくことにも、傷ついた人にも。傷がふさがらなくてもいいから。忘れられなくても良いから。このままで生きていたい。私、今日が好きです。今が好き。今のすべての人が好き。
 
 
(『十代に共感する奴はみんな嘘つき』より)