かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「心がホッとするCDブック(中野信子・野田あすか)」〜「こころのおと」に素直に耳を傾けていくということ。

 

 

 

日々生起する様々な諸事に忙殺されていると、いつしか心もくたびれてしまいます。なるべくこまめに休ませてあげましょう。本書は心を休ませるのに最適なピアノソロ10曲が収録されてます。
 
 

* 心の中を「気づき」で満たす

 
本書で解説役を務める脳科学者、中野信子先生はこれらの楽曲を「マインドフルネス」的に聴くことを勧めています。
 
1970年、マサチューセッツ大学のカバットジン博士が仏教の教えに着想を得たマインドフルネスストレス低減法を開発して以来、マインドフルネスは心身疾患や精神疾患の治療に活用され、最近ではストレスマネジメントとしても注目を集めています。
 
マインドフルネスの語源はパーリ語のサティ(sati)という言葉にあり、漢語では「念」、日本語では「気づき」と訳されています。
 
つまり、マインドフルネスとは、「今、ここ」に起きている出来事や心の状態に意識を向けることで生じた「気づき」を評価したりせず、ただ、ありのままに受け入れている心の状態を言います。
 
なぜ「今、ここ」に意識を向けることが大事なのでしょうか?
 
人は言語に住みつかれている存在です。ゆえに我々の脳は放っておいたらあれこれと考え出してしまうように出来ている。
 
そして思考は感情と結び付いています。人は「過去」の後悔に引き摺られることで抑うつとなり、「未来」に憂いを抱くことで不安になります。
 
そこで「過去」でも「未来」でもない「今、ここ」という「現在」に意識を向け、心の中を「気づき」で満たしていくことが大事になるわけです。
 
心の中を「今、ここ」に対する「気づき」でいっぱいにすることで抑うつ感情や不安感情を呼び起こす思考を手放すことができる。これがマインドフルネスの考え方です。
 
例えば、苦しい時は「ああ、いま自分は苦しい状態なんだ」と「気づく」だけでいい。なぜ苦しいのか分析したり、どうすれば苦しみから抜け出せるかなどと「考える」ことはしない。
 
このように思考や感情を「自分自身」ではなく「別の対象」として認識するということ。これを「メタ認知」といいます。
 
このような「メタ認知」を習慣化することで、思考や感情にとらわれる事のない安定した精神状態を作り出す事ができるわけです。
 
 

* 悲しいとき、悲しい曲を聴く

 
カバットジン博士は「気づき」を得るための効果的な実践法として瞑想を導入しました。例えば、ボディスキャン瞑想というのがあります。これは臥位の姿勢をとり、注意の対象をつま先から頭に向かって順々に移動させ、そこでの瞬間ごとのありのままの感覚を感じ取っていくというものです。
 
もっとも、マインドフルネスの実践は瞑想に限定されません。食事や歩行や他人との会話などの日常動作なども「今、ここ」に意識を向けて行うことで、それらは立派なマインドフルネスの練習になります。
 
つまり、本書が推奨するピアノの音色に意識を向けるというのも一つのマインドフルネスの実践ということになります。
 
本書収録のCDの聞き方の特にルールはありません。順番に聴いてもいいし、ランダムに聞いても良いし、お気に入りを繰り返し再生し続けてもいいんです。
 
静かにピアノの音色に耳を傾け、何か「気づき」あれば、それが例え、過去の嫌な記憶だったとしても「そうか、私はこの曲を聴いてこういう風に感じているな」と、大切に受け入れていければいい。
  
あるいは、現在の感情にあった曲を選んでじっくり耳を傾けるのもいいでしょう。音楽療法では「同質性の原理」という言葉があります。悲しいとき、悲しい曲を聴くと「いま自分は本当に悲しいのだ」と悲しみの感情を自ずと認知できる。そしてそこから自己治癒力が自然と生じてくるということです。
 
 

* あなたは、あなたのままでいい

 
また、中野先生が言うように、収録曲の作曲、演奏を担当する野田あすかさんの気持ちに共感を寄せて聴くことによっても新たな「気づき」が生まれるかもしれません。
 
野田あすかさんは広範性発達障害自閉症スペクトラム障害)という先天的な脳の障害を抱えています。小さい頃から周囲と上手く関係を築けず、10代になると二次障害として解離性障害を併発し、自傷行為などの解離症状に悩まされてきました。
 
あすかさんが発達障害とわかったのは22歳の時。狼狽する両親をよそにあすかさんは自分は発達障害だったから皆と同じように上手くできなかったんだということがわかり、「ほっとした」と述懐しています。
 
それと同時に、興味のあることは人一倍集中して取り組めるという発達障害の特性を知り、これまでずっとやってきたピアノを頑張っていこうと、発達障害の持つ「明の部分」にかけていく決意をする。
 
かつてあすかさんにとってピアノはやらされるもの、教えられた通りに弾かなければならないものだった。しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。
 
田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に開眼する。
 
ここからあすかさんの人生が少しずつ好転していきます。2006年の宮日音楽コンクールグランプリを皮切りに、国際的なコンクールでの入賞が相次ぎ、各地でのソロリサイタルも好評を呼び、今年はアルバム「哀しみの向こう」でメジャーデビューを果たしました。
 
こうしてあすかさんの前にピアニストとしての未来が、自分の音楽を人に聴いてもらうことを自らの喜びとして生きていくという新たな希望が開けてきたわけです。
 
 

* 哀しみの向こうは、ぜったいにやさしさや、明るさが待っています。

 
あすかさんは優れたピアニストであると同時に、卓越したメロディメーカーです。本書収録曲はどの曲も耳に残るキャッチーさと心を揺さぶる叙情性を併せ持っています。クラシックに馴染みのない方でも聴きやすいと思います。
 
本書の第3部ではそれぞれの曲についてのあすかさんのコメントが載っています。例えばメジャーデビューアルバムにも収録されている「哀しみの向こう」という曲については次のように綴っています。
 
すこし、きもちが落ち込んだ日がつづいていました。でも何回も、そうなってきたから、私は知っています。ちゃんといつか、希望を持てる日がくるって。哀しみの向こうは、ぜったいにやさしさや、明るさが待っています。
 
同じようなメロディをすこしずつかえることで、明るく前向きになるようすを曲にしました。自分の中の願いも込めたから、気持ちが入りすぎて、壮大になりすぎたところもあるけど、それはそれで、私の感じたことだから、そのまま残しています。
 
〜本書より(58頁)

 

 
 
 
本曲は哀愁を帯びたメロディから始まり、そこにやがて光が差し込み始めていくような展開です。
 
クライマックスの力強い演奏はまさに一歩一歩、自らのかけがえのないこの生を歩んでいこうとするあすかさんの決意そのものに聴こえないでしょうか。
 
あすかさんの生き様は大切なことを教えてくれます。「あなたは、あなたのままでいい」。それは自分の中で鳴り響く「こころのおと」に素直に耳を傾けていくということ。
 
人は誰しもその人だけの「こころのおと」というべき内的な現実をもっています。「こころのおと」に素直に耳を傾けるということは、時には耳を塞ぎたくなるような「悲鳴」さえも大切に抱きしめていくという事です。
 
時としてそれは、いばらだらけの苦しい回り道になるかもしれません。けれど、暗闇があるからこそ、人は光明の在処を知ることができる。外的な現実を懸命にやり抜きつつも、内的な現実との対話を重ねていく。そういった営みの積み重ねこそがまさに「生きていく」ということなんだと、そう思うわけです。