* はじめに
中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。
鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。
そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。そして、城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。
* ポストモダンにおける文化的想像力の遷移
要するに、本作には、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城の中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという世界観設定があるわけです。
一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。
こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。
すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。
この点、宇野常寛氏が「ゼロ想」で示した文化的想像力の変遷モデルは以下のようなものです。
⑴ 引きこもり/心理主義
まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。
つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。
95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。
これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。
けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。
セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。
⑵ 決断主義
2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。
つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。
現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。
* 「決断主義の克服」としての「助け合える存在」
ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。
一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもない。9時5時限定で開城し、水もガスも通ってないのになぜか電気だけは通っているこの不思議な城の中で、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が3月まで過ぎていく。
こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。
すなわち、ここでは「決断主義の克服」というテーマが暗に語られているわけです。
* 他者に手を差し伸べるということ
「大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。
「決断主義」とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立し、「勝つか/負けるか」「奪うか/奪われるか」という「白か/黒か」の終わり無き動員ゲームが展開される状況をいうわけです。
けれども我々が異なる「小さな物語」を生きる「他者」を受容できた時、そこには「共感」や「つながり」といった「白か/黒か」ではない、より成熟したコミュニケーションの可能性が開けてくる。
そういった意味において本作が色彩豊かな筆致で紡ぎ出しているのは、「他者」とのつながりの中に代え難い価値を見出していく「ポスト決断主義」としての「次世代の想像力」であると言えるのではないでしょうか。
物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。
この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。
最後の展開はまさに「決断主義の克服」という意味では象徴的です。7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われるんですね。
そしてその子は今度を皆に手を差し伸べていく側に回って生きていくことになる。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じることになるわけです。
* 少女の内閉期を描き出した「おはなし」
臨床心理学者の河合隼雄氏は思春期の少女の成長において「内閉の時期」の重要性を指摘しています。
「内閉の時期」とはいわば、幼虫が蝶になる過程における「さなぎ」の時期です。この時期においては、これまで快活だった子が急に無口になったりする反面、その内面においては凄まじい変化が起きている。
このような内的な変化を成し遂げる際には、さなぎの外殻の如き、外に対する固い守りが必要になってくる。
この点、本作においては、孤城という「内の世界」の中で、これまで「生きてこなかった半面」との対話を繰り返すことで「外の世界」における他者との間でもまた、新しい社会的紐帯を結び直していく過程が描き出されている。
そういった意味において本作はポストモダン文学における想像力の一つの到達点を示していると同時に、思春期の少女の内閉期を描き出したすぐれた「おはなし」としても読めるでしょう。
* おわりに
このように本作は様々な読み方を可能にする圧倒的な深みをもつ作品です。一方で、当然ながら純粋に物語としても非常に面白いです。
本作はかなりの長編ですが、随所にイベントというか、見せ場を仕掛けており読者を飽きさせることはありません。
ばら撒かれた伏線を回収していく手際も見事です。オオカミ様の正体がわかった後、最初から読み直すと、彼女の尊大な言動にも味わい深いものを感じます。
考えさせられることも多く、かつ楽しい読書でした。これから何度も読み返したい本がまた一つ、増えました。