かぐらかのん

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「君の膵臓をたべたい(アニメ版)」〜「終わりある日常」を生きるということ

 

 

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

劇場アニメ「君の膵臓をたべたい」 Original Soundtrack

 

 

 

* 「瑞々しいもの」として回帰する「セカイ系的想像力」

 
住野よるさんという人はもともとライトノベル作家を志望されていたようでして、「君の膵臓をたべたい」という作品も、大手ライトノベルレーベルである電撃小説大賞用の応募原稿だったそうです。
 
結局、分量が規定を超過してしまい電撃小説大賞には投稿できず、その後、紆余曲折を辿り「この作品だけは誰かに読んでもらいたい」という一念から投稿サイト「小説家になろう」に投稿した経緯があるようですね。
 
そういう経緯も関係しているのか、原作はかなりラノベ的な文法で書かれており、その後景には、ゼロ年代初頭のセカイ系的想像力、もっというと、Key作品などの「泣きゲー」の影響がそこはかとなく感じられます。
 
桜良ちゃんの正式な病名は明らかではなく、また、家族とか医療関係者などの描写がほとんど出てきません。
 
「死という現実」と向き合うヒロイン、傍観する主人公、希薄な社会描写。こういった点はまさしく「セカイ系」と呼ばれる作品が持つ特徴と重なります。
 
かつては何かと「オタク的」「引きこもり」などと揶揄されてきた「セカイ系」という想像力をベースに書かれた作品が、いま幅広い層に「瑞々しいもの」として受け入れられる事象はなかなか興味深いものがあります。時代がひとまわり回ったということなのでしょうか。
 
 

* 本作のあらすじ

 
クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。これをきっかけとして二人のーーー親友でも恋人でもないーーー不思議な関係が始まっていく。
 
 

* 「終わりある日常」を生きるということ

 
桜良は自分の中に鳴動し始めた「死」と向き合う最善の選択肢として「終わりある日常」を精一杯生きることで、その「生」を祝葬する生き方を選ぶ。
 
そのために必要なのは彼女の境遇をどこまでも我が事のように悲しんでくれる「親友」ではなかった。むしろ、必要だったのは容赦なく「真実」を突きつけつつも、偽りの無い「日常」を与えてくれる「他者」の存在だったわけです。
 
臨床心理学者、河合隼雄氏は、人の心の内的成熟の過程とは、これまでの人生で「生きられなかった半面」や「切り捨ててきた”たましい”の側面」といった「自己」を取り戻していく「自己実現の過程」であると言います。
 
その意味では、本作は桜良が「終わりある日常」を生きる中で、【僕】という「他者」を鏡として「これまで生きてこなかった半面」「切り捨ててきた”たましい”の側面」を取り戻していく「自己実現の過程」を描いた物語のようにも思えました。
 
桜良はいう。誰にとっても1日の価値は一緒であると。そして人の行動は運命でも偶然でもなく意思による主体的選択であると。
 
こういった言葉達は我々にこの凡庸な日々の瞬間ひとつひとつの中にこそ、何ものにも代え難い特別なきらめきがあることを教えてくれます。
 
この作品がセカイ系的想像力を基盤とするにもかかわらず、幅広い層の共感を呼んだ要因はその辺りにもあるのではないかと思うわけです。
 
 

* 「キミスイ」はぜひ、アニメ→実写映画→原作の順で

 
桜良ちゃんは実写映画版の浜辺さんのイメージが先行していたので、アニメ版の少し大人っぽく儚げなキャラデザとウザカワな性格はややミスマッチな印象は少し感じました。
 
この作品は実写の出来が良いんですよ。ただ、それは別にアニメ版の出来が悪いというわけではなくて、【僕】の表情が少しずつ優しくなっていく変化の過程がはっきり分かるのはアニメというメディアならではだと思いました。あと、原作にはない花火のシーンは良かったです。
 
キミスイ」をまだ見たこと、読んだことない方であれば、まずアニメから入って、次に実写映画でイメージを把握した上で、原作の、特に共病文庫フルバージョンを読むという順番がいいのかもしれませんね。