かぐらかのん

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エディプスコンプレックスの物語として観る「未来のミライ」

 
 

* 「欲望の主体」としての自立

 
これまで一人っ子だった「くんちゃん」が妹の「未来ちゃん」の誕生を切っ掛けに、「二者関係の三者化」というエディプスコンプレックスを経て自己を獲得していくというお話だと思いました。
 
エディプスコンプレックスなどと言うと何か荒唐無稽なものと捉える向きも多いでしょう。けど、ここでいうエディプスコンプレックスは、ジャック・ラカンが構造化したような、子供と母親(養育者)の間に「言葉」を始めとした「社会のルール」が介在する過程であると理解すればなんら荒唐無稽な話でもないかと思います。
 
この点、伝統的な精神分析の理解から言えば、エディプスコンプレックスを起動させる為の〈父の名〉を担うのは実際の父親ということになるんですが、父権がおよそ失墜した現代においては必ずしもそうでないことの方が多いわけです。
 
本作の父親も現代の父親らしく〈父の名〉としてはほぼ機能していません。良くも悪くも父親が「イクメン」として奮闘すればするほど皮肉なことに〈父の名〉から遠ざかってしまう現実があるということです。
 
面白いのが、その代わりに未来から来た妹や若き日の曾祖父が〈父の名〉の機能を果たしている点です。すなわち〈父の名〉とは属人的なものではなく純粋な機能であると言うことがよくわかります。
 
そしてラカンによれば、子どもは〈父の名〉を受け入れることで「象徴的ファルスへの欲望」が生じるといいます。
 
象徴的ファルスというのは、いわゆる「社会的な成功体験」の獲得のことです。子どもは最初、母親が常にそばにいない事がフラストレーションでわけがわからなく泣き叫ぶことしかできませんが、徐々に「社会的な成功体験」を積み重ねることで母親が褒めてくれるというルールを学んでいく。そのうち社会的な成功体験の獲得自体に楽しさを見出していく。こうやって子どもは母親べったりから、あれをしたいこれもしたいという「欲望」を獲得していくということです。
 
まさに若き日の曽祖父にオートバイに乗せてもらった体験がきっかけで自転車に乗れるようになったエピソードは象徴的ファルスの獲得として理解できるでしょう。
 
このように本作は、幼児の中にエディプス葛藤が芽生え「欲望の主体」として自立していく過程を描いた作品とも言えます。そういう観点から言えば本作はとても秀逸な出来だと思います。
 
 
疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ

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* 何年か後に評価されるタイプの作品なのかも

 
ただ、Twitterで見かけた「よそん家のホームビデオ」という感想の通り、物語として素直に共感できる層は割と限られそうな気がしますね。
 
確かに予告編だけ見ますと壮大なファンタジー的物語を期待してしまうと思うんですよ。なので予告編観てイメージを膨らませてきた人ほどちょっとそのギャップにがっかりしてしまうのもわからなくもないです。
 
まあ何というか、これは本作の出来不出来というよりマーケティング側の問題なのでしょう。「この夏最大の感動作」とやらを求めて劇場に足を運んだ方々には満足行く作品ではなかったかもしれませんが、もしかしたら何年か後に評価されるタイプの作品なのかもしれませんね。
 
なお、本作で色々起きる不思議体験はタイムリープ的何かのSFな理屈ではなくて、ユングが言う「集合的無意識」へアクセスした結果の白日夢だと考えるとちょうど良い理解かと思います。クライマックスで出てきた樫の木などまさに、くんちゃんの家系の集合的無意識の象徴に他なりません。
 
そういうわけでして、裏を返せば他人の家のホームビデオを観て幸せな気分になる方にとって本作は是非おすすめということになります。未来のミライというタイトルの割に肝心の未来の未来ちゃんの出番がそんなにないのが玉にキズですが、ひぃじいじは痺れるほど格好良いし、東京駅の映像美は素晴らしいと思います。
 

 

未来のミライ (角川つばさ文庫)

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