かぐらかのん

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「羊と鋼の森(宮下奈都)」の感想。「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)

 

 

奇妙な取り合わせのタイトルだなあなんて思っていたら、なるほどピアノのことでした。羊のフェルトのハンマーで鋼の弦を響かせるピアノは打楽器でもあり弦楽器でもあります。
 
2016年本屋大賞。本作のテーマは「調律」です。
 
主人公である外村は高校生の時、偶然、自分の高校のピアノの調律にやってきた板鳥の調律に魅せられてこの世界に入ろうと決意。調律の専門学校での2年間を経て、幸運にも板鳥が勤める楽器店に採用され、調律師として試行錯誤しながら一歩ずつ前に進んでいく。そういう職業小説であり、青年の成長譚でもあります。
 

* お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ。

 
調律はまず49番目のラの音を440ヘルツに合わせるところから始まります。 ちなみに赤ん坊の産声も世界共通で440ヘルツだそうです。
 
そして、それを基準として12の音階を88の鍵盤に割り振っていく。そういう意味で調律は星座の布置にも似ているかもしれないですね。奇しくも星座の数も88なんです。
 
ただ、調律が普通の家電製品のメンテナンスとは明確に違うのは顧客の求める「理想の音」というのが顧客の数だけ無数にあるということ。そしてそれは多くの場合、明確な数値ではなく抽象的なイメージでしかないということです。
 
外村の先輩調律師である柳の言葉で言えば「お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ」ということです。
 
美しいラ。その響きにいかに共鳴し、どう答えて行くかという哲学は個々の調律師によって当然異なってくる。 本書に登場する先輩調律師、板鳥、柳、秋野は三者三様に個性的です。この辺りが作品のポリフォニーを豊かにしています。
 

* 相対立する二つの相の複雑な統合としての「美しいラ」

 
まず、顧客の「美しいラ」に共鳴するにはまずは調律師自身が理想的な「美しいラ」の明確なイメージを持つ必要があるんでしょうね。この点、板鳥は原民喜の言葉を引いて外村に明快な到達点を示します。
 
「明るく静かに澄んで懐かしい文体 、少しは甘えているようでありながら 、きびしく深いものを湛えている文体 、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体 」
 
この言葉が意味するのは相対立する二つの相の複雑な統合です。そしてそれは同時に、本作が目指した文体でもあり、後に述べるように作中の根底にある主題とも重なるものがあるでしょう。
 

* 言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか。

 
では、今度は顧客の求める「美しいラ」にどう共鳴して行くのか?
 
この点、柳の次の禅問答のような言葉はかなり示唆に富むものがあります。
 
「言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」
 
おそらくこれは「言っている事」と「言わんとしている事」の間にある種の「裂け目」に生じるシニフィカシオンを読むということではないでしょうか。
 
実際に柳は、「以前と同じ音にしてくれ」という依頼主である老婦人のリクエストにも関わらず、ピアノを以前よりも豊かに鳴らすよう調律をする。その真意について柳は次のように述べる。
 
「元の音、っていうのが問題なんだ。あの人の記憶の中にある元の音より、記憶そのもののほうが大事なんじゃないか?小さな娘さんがいてピアノを弾いていた、幸せな記憶」
 
見方を変えれば「美しいラ」なるものは最初からどこかに存在するわけではなく、顧客と調律師の間の間主観的な関係性の間で共決定されるものなのなのかもしれません。
 
こうしてみると調律とはピアノ、そして人というどちらも繊細な存在を相手にする仕事であるとも言えるでしょう。
 
逆に秋野は「美しいラ」とは一定の距離をおいたスタンスをとります。弾き手の力量を考慮して、演奏にアラが出ないようあえてピアノの鳴りを抑えるような調律をすることもある。
 
できないのではなくやらない。これは自らのピアニストとしての挫折経験からくる彼なりの哲学であり、むしろこれはこれでプロのサービスマンとしての矜持を感じるものがあります。
 

* ピアノを食べて生きていくんだよ。

 
こうして青年は駆け出しの調律師として鬱蒼とした羊と鋼の森の中を彷徨う中、ある日ふたごの妖精に出会うわけです。
 
先輩調律師の柳について初めて訪問した顧客先。ピアノを弾くのは高校生の双子の姉妹です。
 
双子なんですけどピアノの演奏スタイルは全く対照的なんですね。勢いと彩りに満ちたピアノを奏でる妹の由仁に対して姉である和音のピアノは堅実ながらも面白みが欠ける。
 
これって長女あるあるなんでしょうか。きっと姉として妹に対して模範的なピアノを弾かなければならないという無自覚な思いが和音ちゃんの中にあってこういうスタイルになったのかもしれません。
 
つまり長女というペルソナで生きていくにあたっては過剰とも言える自分の特異的な部分を切り捨ててやってきたわけです。
 
柳も含め周囲の評価が高いのは由仁のピアノの方なんですが、ところが、外村は和音のピアノの方に惚れ込んでしまいます。彼だけはそれまで誰も気付かなかった和音の中にある確かな特異的な煌めきを垣間見たわけです。
 
普通じゃなかった。明らかに、特別だった。音楽とも呼べないかもしれない音の連なり。それが僕の胸を打った。鼓膜を震わせ、肌を粟立たせた。
 
それで、その後、由仁はピアノを弾こうとすると指が動かなくなる病気になってしまうんですね。この病気については詳しくは書かれていないんですが、おそらく神経症の一種でイップスのようなものらしいです。
 
和音は妹の病気に激しく落ち込んでしまうわけですが、やがて立ち直って行き、プロのピアニストを目指す決意をする。
 
「ピアノで食べて行こうなんて思っていない」
 
和音は言った。
 
「ピアノを食べて生きていくんだよ」
 
これを機会に和音のピアノは大化けします。もともとの持ち味であった端正さや繊細さに加え妹の華やかな部分をも自分のものにしたような演奏で周囲を脱帽させる。
 
そして和音に触発されるかのように、由仁もそして外村も自らの生き方を定めていくことになります。
 

* 「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 
先ほど特異的な部分と言いましたが、和音にとって由仁はコンプレックスを抱く存在であるとともに「生きられなかった半面」であったと思うんです。
 
これはスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングの言う「影」と言う概念に関わるんですが、裏返して言えば、これまでは由仁が和音の「生きられなかった半面」を生きていてくれたからこそ、和音はそのことで自己の全体性を保っていたとも言えなくもない。
 
だからこそ妹がピアノが弾けなくなった時、姉は葛藤を経ながらも、これまで妹が引き受けてくれていた「生きられなかった半面」を生きていくと決意したのではないのでしょうか。
 
こうして「影」を引き戻すことで、かすかな「きらめき」が大きな「かがやき」となった。ユング自己実現とは相対する二つの相を統合し自己の全体性を回復する過程であると言います。「生きている」と「生きていく」は僅か一文字の違いですがその意味するところは大きく異なります。本当の意味で「生きていく」というのは「これまで生きられなかったことを生きる」という営みなのではないでしょうか。
 
静謐な文体で紡ぎ出される穏やかで優しい時間が心地の良い読書でした。