かぐらかのん

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いまだにフロイトが読まれるべき理由--フロイト入門(中山元)

 

* なぜいまフロイトなのか?

 
我々は自らを理性ある存在として「我思う、故に我あり」とデカルト的に自分自身を理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ってしまうわけです。
 
また我々は「受容」や「共感」が大事などと言いつつも、いざ他人の理不尽なドロドロな感情に巻き込まれた時、その実践は限りなく至難である事を思い知るわけです。
 
つまり、こころの理論を学ぶという事は、そういった不気味なもの、わけのわからないものに補助線を引く力、物語を与える力を涵養する為の営みであるともいえるでしょう。
 
この点、「そもそも、こころとは何か」という根源的な論点につき、フロイトほど鋭い問いをたて、真摯に深く考察し尽くそうとした人は後にも先にもいないと思います。
 
本書はフロイトの理論展開の変遷を丁寧に追っていく労作です。原著からの豊富な引用はフロイトの論文を数多く訳した著者だからこそなせる技なのでしょう。
 

* 誘惑理論からエディプス・コンプレックス

 
精神分析という営みは19世紀末から20世紀初頭にかけて当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法として生まれました。 この点、当初、フロイトはヒステリーの原因を幼年期の心的外傷に求める「誘惑理論」なるものを提唱します。すなわち、ヒステリーの症状とは、幼年期に父親などの親近者による性的誘惑や虐待経験を受けた際の情動が抑圧され、それが後年になり身体に回帰したものに他ならないということです。
 
けれどもその後、いくつかの症例において、幼年期の性的誘惑や虐待経験は虚偽の事実だったことが判明する。それにそもそも当時のウィーンにはいたるところに神経症に苦しむ女性がいたわけですが、彼女たちの肉親がすべからくペドフェリア的な性的倒錯者だと看做すのはどう考えてもおかしい。
 
こうしてフロイトは誘惑理論をあっさりと放棄します。そして次のように考えた。患者達は子供の頃に、両親から性的に誘惑されたのではなく、むしろ子供が両親に性的な欲望を抱いたがために、偽の記憶が偽造されているのではないか、と。
 
このような幼年期の心的葛藤を自らの自己分析を通じて発見したフロイトはこれをギリシアのオイ・エディプスの悲劇になぞらえ「エディプス・コンプレックス」と名付けるわけです。
 

* 生の欲動と死の欲動

 
フロイトはヒステリー患者の臨床を通じ、症状の原因は意識の支配が及ばない心的領域、つまり「無意識」に存在することを突き止めます。
 
さらにフロイトは夢の分析を通じて「夢は願望充足の手段である」という仮説を立て、心的システムの体系化を試みる。これが「意識・前意識・無意識」からなる第一局所論です。
 
フロイトによれば、無意識と前意識の間には第一の検問所が存在し、無意識のうちに潜む願望を意識に登らせる役割を担います。これに対して意識と意識の間にある第二の検問所は、この願望を検閲して、それが意識の領域に受け入れられるように歪曲する役割を担うことになります。
 
しかし、その後、フロイトはこの第一局所論が通用しない事態に直面します。それは他ならぬ、かの第一次世界大戦です。
 
この大戦においてフロイトが目にしたのは苦痛な戦場の経験を延々と反復する悪夢に悩まされる兵士たちでした。いまでいうPTSDと呼ばれる症状です。
 
「夢は願望充足の手段である」という従来の理論ではこのような事象を説明できない。そこでフロイトはここでもまた自らの理論のアップデートに挑む。
 
それまでフロイトは人間の根源的な衝動は性欲動と自己保存欲動であるという立場を取っていました。けれどこれらは突き詰めると結局は同じものではないかということに思い至る。そこでこの2つを「生の欲動」として統合し、その対極に位置するものとして「死の欲動」を見出した。
 
このような新たに立ち上げた「生と死の欲動二元論」をベースとして構成された心的モデルが「自我・超自我エス」の第二局所論と呼ばれるものです。
 
死の欲動」などというと何か荒唐無稽な思弁のようにも思えますが、ちょっと考えればわかるでしょう。仮にもし自分が未来永劫永遠に、絶対に死ねないとすれば、それは文字通りの「生き地獄」です。我々は普通に発狂するしかないわけです。
 
つまり突き詰めていけば我々は最終的にはどこかで「いつか死にたい」と思っているということです。人はいつか必ず死ぬ。死ぬことが許される。だからこそ人は限りあるこの生を限りなく懸命に生きたいと思うわけです。
 

* おわりに

 
このようにフロイトの本当に凄いところは、何かと性道徳にやかましいヴィクトリア王朝の空気が色濃く残る20世紀初頭のウィーンの真っ只中で「人の根源は性衝動である」と高らかに叫んだロックスターの如き生き様もさることながら、何よりも間違いは間違いで率直に認め、それはなんで間違ったのかを徹底的に考え抜いたところにあると言えます。
 
過去の過ちを認め未来へ進む勇気。フロイトの生き様を辿ることで我々はそういった諸々も学びとることができるわけです。
 
ところで、フロイト最大の功績は転移の発見だと思います。他者と関係する時、通常、人は「関係」と「観察」のどちらかしかできません。斎藤環氏が言うように転移は「関係」と「観察」を同時に行うことを可能とするほぼ唯一の視点です。転移という視点を持っているか持っていないかでコミュニケーションの質は随分と変わってくるはずです。
 
そういう意味でもフロイトはやはりこれからも読まれるべきなんでしょう。人間関係はもちろんのこと、文学、音楽、絵画、映像など、日々出会うあらゆる事象への深い洞察や豊かな共感を涵養する上で、精神分析から学ぶべきものは数多いと思います。