かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

個人的に響いた禅語10選

 

 

人生をシンプルにする 禅の言葉 (だいわ文庫)

人生をシンプルにする 禅の言葉 (だいわ文庫)

 

 

 
周囲の状況に振り回されないためにも、自分のあり方をしっかりと持っておく事はとても大事な事です。
 
対人関係療法の第一人者である水島広子先生が言われているように、本当の自信とは「これまで何をなしたか」という「成果や評価」ではなく「いま、どうありたいか」という「自らのあり方」から生まれてくるという事です。
 
そうはいっても自分がどうありたいのかなんて、自分でもよくわからないし・・・と、そういう向きにお勧めなのが「禅語」を読んでみることです。
 
禅語とは、お釈迦様の教えをもとに、多くの禅僧によって生み出された言葉です。今や完全に日常語に溶け込んだ禅語も多数あります。もっとも以下のように、現在は本来と違う意味になっているものも多いです。
 
・「挨拶」・・・師匠と修行中の弟子とが真剣勝負として行う禅問答のこと。
 
・「無事」・・・探すのをやめた時、自分の中に見つかることがあるということ。
 
・「沈黙」・・・真実や悟りは言葉によっては表現できないということ。
 
・「知識」・・・仏道修行において師匠や同志となる人のこと。
 
厳しい修行の果てに到達できる自由闊達な境地から発せられた数々の言葉には「人としてのあり方」がシンプルな形で数多く示されています。
 
ここで個人的に響いた禅語を10個紹介してみます。有名なのも多いと思いますが、もちろん、この他にもたくさんの禅語があります。色々見ていると、きっといくつか響いてくる言葉が見つかると思いますよ。
 

* 喫茶去(きっさこ)

 
一杯のお茶を飲む。まさに何気ない行為です。けれどもその瞬間、お茶と自分を一体化させるが如く無心になって喫するということ。
 
「今、ここ」というこの瞬間を絶対的なものとしてとらえるのが禅の教えです。過去にとらわれるでもなく、未来を憂うでもなく、「今、ここ」という瞬間をていねいに生きる。そして、この「今、ここ」という瞬間の積み重ねこそが「人生」を形作っているわけです。
 
近年、注目されているマインドフルネスというのは、まさにこのような「今、ここ」に集中する練習をやっているわけです。
 
食べること、戸を開けること、電車を待つ事、体の重心を意識すること、周囲の音や、光、香りを意識すること、足元の地球を意識すること等々・・・生活の様々な小さなことに目を向けることで日々が様々な「気づき」に満ちたものになるということです。
 

* 動中静(どうちゅうのじょう)

 
静かな心は静かなところでしか得られないというわけではない。騒がしい日常の中にいても静かな境地を保つことができるということです。
 
心が落ち着かない時、イライラした時は瞑想がおすすめです。その手の本を見れば様々な瞑想法が載っていたりしていますが、瞑想の全てに通じる基本は「調身・調息・調心」です。 まず、姿勢を整え、呼吸が整える。そうすると自ずと心が整ってくるということです。
 

* 脚下照顧(きゃっかしょうこ)

 
日々の暮らしの中では様々な問題が生起します。仕事、家庭、健康、お金等々。ともすれば、これらの問題に振り回され「あれもしないと、これもしないと」と考えてしまいがちですが、そういうときこそ、今の自分の足元、つまり置かれている状況を見つめ、まずは今できることをひとつひとつ確実に積み重ねて行くということが大事になってきます。
 
奇跡も魔法もない世の中です。未来には他ならぬ自分の足で一歩ずつ進んでいくしかないわけです。
 

* 清寥寥白的的(せいりょうりょうはくてきてき)

 
心が透き通って明瞭な状態。自我や先入観にとらわれることなく常に真っ白な心で接することで相手の真意がわかり、自分との接点を見つけ出すことができるということです。
 
我々は人の話を聞く時、相手の言葉と一緒に、その話を聞きながら浮かび上がってきた自分の思考とともに聴いているわけです。時には自分の思考の雑音の方が大きくて、相手の話はほとんど聴いていないということだってあるでしょう。
 
けれども聴き上手になるコツは「浮かんできた思考を脇に置く」ことです。人の話を聞いていて何か意見を言いたくなったりしても、それはひとまず脇に置いて目の前の相手の話に集中し直す。ただただ静かな心で相手の言葉に耳を傾ける。
 
こうすることでストレスなくラクに他人の話を聞く事ができて、さらに、相手からも聴き上手だと喜ばれます。まさに一石二鳥でしょう。
 

* 和顔愛語(わげんあいご)

 
いつも柔らかい笑顔で心のこもった穏やかな言葉遣いをするということ。禅は愛語で語りかけよと説いてます。道元禅師は「正法眼蔵」において「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天の力あることを、学ばすべきなり」と書かれています。
 
言いたいことを思いついたまま語るのではなく、その言葉を相手がどう受け止めるのかということを相手の立場になって考える。
 
何か言う時はその前に一拍おいて、ロジカルとリリカルからのダブルチェックを入れる。こうした習慣は是非身につけたいものです。
 

* 夏炉冬扇(かろとうせん)

 
「夏のいろりと冬の扇子」。どちらもその季節には必要のないものです。しかし、いまは不要でも必ず役に立つ時がきます。 生きていると時として「自分は社会から必要とされていないのではないのか」と落ち込みたくなる事もあるでしょう。100歩譲って今は本当にそうかもしれないですが、未来は誰にもわかりません。
 
大事なのは「今はこれでよい」と現実と自らのあり方を受容するという事だと思います。
 

* 主人公(しゅじんこう)

 
これも日常用語としては違う意味の禅語ですね。ここでいう「主人公」とは誰もが生まれながらにして自身の中に備えている「本来的自己」というべき「自分の本当の姿」のことです。
 
もっとも、ここでいう「本来的自己」とは、まさに自分の中だけにある「特異性」とでもいうべきものです。このような特異性は時として不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状や「漠然とした生きづらさ」という形で回帰してくることがあります。そこで人は自らの特異性と折り合いを付けていく必要があるわけです。
 
時にそれは苦しみを伴うこともあるでしょう。けれども、それこそが「主人公」になるということ、誰のものでもない自分だけのオリジナルの人生を生きるということなのでしょう。
 

* 無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)

 
これは「無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り」という蘇東坡の詩の一節から引用されたもの。人は最初何も持たない状態で生まれてくるが、歳を重ねるにつれ、地位や資産など様々なものを手に入れます。
 
そして何かを手に入れると、それを失うまいと必死になる。けれど、そういった執着や欲望などを手放した時、今まで見えてこなかった様々な景色が見えてくる。何物にも囚われない心のあり方から無限の可能性がひらけてくるということです。
 

* 花無心招蝶 蝶無心尋花(はなはむしんにしてちょうをまねき ちょうはむしんにしてはなをたずぬ)

 
出典は良寛さんの漢詩の一節。春になると花が咲き、蝶は花を求めて飛んでくる。これは誰から学んだわけでもない自然の摂理です。
 
こうした摂理を仏教では「因縁」といいます。最初に「因」があり、そこに「縁」が働き結果が出る。結果はまた「因」となり、そこに「縁」が加わりまた別の結果となる。
 
いま置かれているこの状況もまた、偶然でも宿命でもない、因縁によるめぐり合わせの結果だということです。 悪因でも良縁が加われば良果が得られ、良因でも悪縁が加われば悪果となる。そして、良縁は良縁を呼び、悪縁は悪縁を呼んでくる。
 
いざ良縁にめぐり合わせた時、それを十全に活かせるよう日々、精進をしたいものです。
 

* 日日是好日(にちにちこれこうにち)

 
唐の高僧、雲門文偃禅師の語に由来する有名な禅語ですね。毎日、良い事ばかりではありません。心が晴れる日もあれば曇る日もあり、土砂降りの日もあるでしょう。
 
人生糾える縄の如し。けれども、今日という一日は二度とない一日であることは少なくとも確かなことです。良き日も悪しき日も、その瞬間しか得られない大切なことがあるということです。
 
この文章を書いてて、ふと、渡辺和子さんの次のような言葉を思い出しました。
 
「今日より若くなる日はありません。だから今日という日を、私の一番若い日として輝いて生きてゆきましょう」
 
(置かれた場所で咲きなさい)

 

 
好日は向こうから勝手に訪れるものではない。自らの生き方に、日々に、好日を見出しえなければならないということです。今日という日を懸命に生きることができれば、それはきっと、まさに好日ではないでしょうか。
 
 
ここまで読んで下さって有難うございます。生きていれば色々大変な事もありますが、折角の人生です。毎日できることから一つひとつ、ていねいに取り組んで行きましょうね。