かぐらかのん

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「発達障害(岩波明)」を読む。「自閉症」と「自閉症スペクトラム障害」の違い。発達障害における「個性」と「特異性」。

 

発達障害 (文春新書)

発達障害 (文春新書)

 

 

 
発達障害の理解を困難にしている理由の一つにその概念のわかりにくさがあります。現在、「発達障害」と言う時、何を指しているのか、だいたい以下の3つのパターンが考えられます。
 
DSM-5における「神経発達障害(NDD)」というカテゴリー全体を指す場合。
 
②「自閉症スペクトラム障害ASD)」「注意欠如多動性障害(ADHD)」「限局性学習障害(LD)」を総称して指す場合。
 
DSM-4-TR以前における「広汎性発達障害(PDD)」を指す場合。
 
③の場合、範囲的には「自閉症スペクトラム障害ASD)」とほぼ重なることになります。「自閉症スペクトラム障害ASD)」とは、2013年のDSM改訂により、自閉症アスペルガー症候群などが統合されてできた診断名です。その診断基準は以下の通り。
 
・「対人コミュニケーション」・・・以下の3項目をすべてを満たすこと。
 
1 対人的に異常な近づき方をしたり、通常の会話のやりとりができない。興味・情動・感情を共有しない。
 
2 視線を合わせない。身振りや顔の表情などの非言語的コミュニケーションが不自然または異常と思われる。
 
3 状況に合った行動ができない。ごっこ遊びができない。協同することができない。仲間に興味がない。
 
・「限定的な反復行動」・・・以下の4項目中、2項目を満たすこと。
 
1 常動的・反復的な運動や物の使用、会話をする。
 
2 同一性への固執、習慣へのかたくななこだわりがある。
 
3 ある対象への強い愛着・没頭することや過度に限定・固執した興味がある。
 
4 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さがある。環境の感覚的側面に対する並はずれた興味がある。
 
では「自閉症スペクトラム障害」というのは「自閉症」「高機能自閉症」「アスペルガー症候群」と何がどう違うのでしょうか?この辺りもDSMが改訂された関係で若干ややこしくなっているわけです。 差し当たり定義的には以下のように整理できるでしょう。
 
自閉症(カナー症候群)・・・「知的発達の遅れ」「言語発達の遅れ」「対人関係・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。近年は、高機能自閉症と対比する意味合いで、「古典的自閉症」「カナー型自閉症」と言われることがある。
 
高機能自閉症・・・「言語発達の遅れ」「対人関係・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。「知的発達の遅れ」がない点で自閉症(カナー症候群)と異なる。
 
アスペルガー症候群・・・「対人コミュニケーション・社会性の障害」「パターン化した行動、特定対象へのこだわり」を特徴とする。「知的発達の遅れ」と「言語発達の遅れ」がない点で、自閉症(カナー症候群)と異なる。
 
なお、ここでは高機能自閉症アスペルガー症候群を一応、区別してはいますが「言語発達の遅れ」は成長とともに解消される事もある為、両者の差は相対的なものであるとも言えます。
 
長々とややこしい事を書きましたが、要するに何が言いたいのかというと、「発達障害」とか「自閉症」という言葉を聞いて浮かぶイメージは人によって千差万別であるということです。その理解にズレがあれば当然、支援もズレたものになってしまう。
 
従って、支援する側される側にとって一番大切なのは、抽象的な症状の説明ではなく「いま何に困ってて」「どうしてほしいのか」という具体的なニーズの把握なんだと思います。
 

* 「個性」と「特異性」の違い。

 
定型発達者が言語を象徴的なルールないしプログラムとして内在化するのに対し、重度のASDの場合、言語を現実的な〈もの〉として掴み取ります。ASDの特徴である常動的・反復的な行動、または、シネステジア(共感覚)、映像記憶というのはかかる見地から理解できるでしょう。
 
このような特徴は時として特定領域に関する驚異的な能力として発揮されたり、あるいは、世間擦れしてない振る舞いが「天真爛漫」とか「純粋」などというイメージで魅力的に映ったりもする。
 
もとより、こういう「明」な部分に注目するのはとても大事な事です。 けど、障害それ自体は「個性」ではなく「特異性」です。「個性」というのは社会システムという「一般性」に認められる事で成立するものですが、「特異性」とは逆に「一般性」の中では受容されることの無い過剰な「何か」をいいます。
 
人は一人では生きていけません。通常、人はこの社会で生きていくための「一般性」を手にする為の代償として自らの「特異性」を手放しているわけです。
 
この点、発達障害とはある意味で自らの「特異性」を手放さなかった、あるいは手放せなかった子供たちだと言えるでしょう。 その「特異性」を「個性」へ昇華させるには「一般性」という「閾値」を超える必要があり、そこに至るには、やはりそれぞれ苦しい道があるわけです。
 
最近は発達障害の「明」の部分ばかりがやたらとクローズアップされていますが、物事には常に表裏が伴います。大事なのは「暗」を踏まえつつ「明」を見ることではないでしょうか。
 

* 発達障害というテーマは「わたしじゃない他の誰かの問題」ではない。

 
一方、いわゆる「定型発達者」にしてもこの「特異性」の問題は無縁ではいられません。かつて、一般性を手にする為に切り捨てたはずの特異性が、後年になり様々な神経症的症状や漠然と感じる「生きづらさ」として回帰してくることがあります。人は結局そこで、自らの特異性と向き合わざるを得ないわけです。
 
要は発達障害というテーマは、「わたしじゃない他の誰かの問題」ではなく、まさに「わたし自身の問題」ということなんだと思うわけです。