かぐらかのん

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「カードキャプターさくら(CLAMP)」を読む。いろいろな「好き」の共生。「愛されたい」と「愛している」の違い。

 

 

 

 「カードキャプターさくら」という作品はご存知でしょうか?1996年から2000年まで「なかよし」に連載され、本来の読者層である小中学生女子のみならず幅広い層を熱狂させ、その一世を風靡。その後も人気は全く衰える事が無いどころか、年を追うごとに着実に支持層を拡大させ今に至るCLAMPさんの不世出の名作です。
 
また本作は「リリカルなのは」や「まどか☆マギカ」に代表される、いわゆる「現代魔法少女」とも呼ぶべきフォーマットを確立した作品でもあります。
 
一昨年から再び正当な続編「カードキャプターさくらクリアカード編」の連載が再開。来年からはアニメも開始され、「さくら」はまた再び大きな盛り上がりを見せつつあります。そういうわけで、ここで一度、旧作をおさらいしておくのも良いでしょう。
 
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本作は大きく分けると「クロウカード編」と「さくらカード編」という二部構成となっています。
 
▼ クロウカード編
 
伝説の魔術師クロウ・リードの作り出したクロウカード。その「封印」が解かれる時、この世に災いが訪れる。
 
友枝小学校の4年生になったばかりの木之本桜はふとしたきっかけから、クロウカードの守護者である選定者ケロベロスによって、散逸したカードを再び「封印」するカードキャプター(捕獲者)に選ばれてしまう。
 
こうしてさくらはクロウカードの「災い」なるものからご町内を守るため、ケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともにクロウカードの封印に奮闘する。
 
 
全てのクロウカードを集めたさくらはクロウカードのもう一人の守護者である審判者月(ユエ)の「最後の審判」を見事クリアしてクロウカードの正式な主となる。
 
そんなある日、さくらの前に謎めいた転校生柊沢エリオルが現れる。そして、その直後より奇妙の事象が続けて発生。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。
 
そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」に変えて行くことで事件を解決していく。
 
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「さくら」は1998年から2000年にかけて、全70話でアニメ化されていまして、当時のNHKアニメ史上最高制作費が投入されたそうです。
 
もちろんアニメそれ自体はいま観てもすごく良い出来栄えなんですが、やっぱり原作とは別物になってしまっているんですよね。
 
原作の持つ独特の、まさしく「それ」としか言いようのない繊細でふんわりとした空気感は漫画というメディアに内在する制約を最大限に生かした賜物であり、これをアニメで再現するというのは困難でしょう。
 
例えば、原作では少女漫画らしく背景の随処でお花がよく咲くんですが、別にあざとく感じられるわけでもなく、むしろ、コマ割りや台詞の間をそっと埋めるように、ごく自然に雰囲気として場面に溶け込んでいるわけです。この辺りの「空気のつくり方」は本当にすごいと思います。
 
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また、さくらは様々な種類の「好き」を一つひとつ、ていねいにかつ鋭く、描き分けて行った作品とも言えるでしょう。例えば、さくらの雪兎への「好き」と小狼への「好き」の違いはまさにそうですね。
 
物語もいよいよ佳境に入る中、さくらはずっと慕っていた存在だった雪兎へその想いを告げます。これに対し、雪兎は次のように言葉を返します。
 
雪兎「…ぼくもさくらちゃんが好きだよ」
 
雪兎「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」
 
雪兎「さくらちゃん、お父さんのこと大好きだよね?」
 
さくら「はい」
 
雪兎「ぼくのことは?」
 
さくら「…好きです」
 
雪兎「その気持ちは同じじゃない?」
 
雪兎「お父さんが大好きな気持ちと、ぼくを好きだと思ってくれてる気持ち、すごく似ていない?」
 
さくら「…似てます」
 

 

 
つまり、さくらの雪兎への「好き」という感情は、精神分析でいうところの「転移」であるということです。
 
「転移」とは、過去に両親など重要な人物に抱いた感情を現在の別の人物に投影することを言いますが、もっと本質的に言えば「わたしは愛されたい」と〈他者〉に要求する幼児的な感情に他なりません。
 
雪兎はさくらの自分に向けられた「好き」が「転移」であることを見抜いており、さくらに「転移」とはまた違う「好き」がこの世界にはあることを気付かせるため、敢えてこのように言葉を返したのでしょう。
 
もっともこの時、さくらは雪兎への感情の中に、藤隆へのそれとはまた違う、つまり転移以外の別の「好き」を僅かながらに抱いていたことに気付きます。これが後の展開へ導くアリアドネの糸となって行くわけです。
 
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物語の終盤、さくらは小狼から告白されるわけですが、しばらくの間、さくらは自分の中にある感情の正体をうまく言語化することができません。その感情の正体がはっきりと分かるのは小狼が香港に帰ることを知った時です。
 
ここでさくらは「小狼の帰国」という一つの「欠如」に直面しているわけです。そこで彼女はその欠如の意味を言葉にする必要に迫られた結果、「わたしは愛されたい」という「転移」としての「好き」とは違う「好き」に、つまり「わたしは愛している」という「欲望」としての「好き」という想いに気付く事が出来たという事です。
 
さくら「ちゃんとわかったよ」
 
さくら「私が小狼君のこと、どう思っているか」
 

 

 
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その他にも、「さくら」の世界には友愛、同性愛、年の差愛と呼べる様々な「好き」が登場します。そういった「好きの多様性」を見せる事を通じて、さくらの小狼に対する「好き」を明確に意味付けすると同時に、かなり相対化もさせているわけです。
 
分析心理学者カール・グスタフユングによれば、人のこころの深層域には「アニマ・アニムス」と呼ばれる「永遠の異性像」が存在しているとされます。ある個人の中で男性性、女性性が一面的になってきた時、相補性の原理と共時性の原理により、その異性像は外的世界にイメージとして投影されていきます。いわゆる「恋に落ちる音がした」という現象はまさにそういう事として理解できるわけです。
 
このような観点から言えば「恋愛」や「性」というのは本来的にはいわば自らの「たましい」との関わっていく問題であり、生物学的な男女の性差という常識的な分類を超えたところがあるわけです。
 
「さくら」という作品が名作の名作たる所以は、そういった極めて重く、難しいテーマを「セクシュアリティの多様性」などといったありきたりなディスクリプションではなく、どこまでも〈おはなし〉として、真摯に物語っているというところにあるのではないでしょうか。