かぐらかのん

心理学関連書籍、ビジネス書、文芸書の書評などを書いていきます。

「君の膵臓をたべたい(住野よる)」を読む。生の欲望と出会い損ないの物語。

 

 

 

原作が出た時、満開の桜の表紙と猟奇的なタイトルの不思議な組みあわせに少し心惹かれましたが、その時は結局読まず終い。ただずっと気にはなっていた作品でしたので、今夏に公開された映画をきっかけに原作の方も手を出してみました。
 
12年後の【僕】が物語を回想する構成を取る映画版とは異なり、原作は桜良の葬儀の場面から始まり重苦しい雰囲気が漂う幕開けです。
 
住野よるさんという人はもともと電撃小説大賞を目指していたらしく、本作も本来は電撃用の応募原稿だったそうですが、分量が規定を超過してしまい投稿できず、紆余曲折あって「この作品だけは誰かに読んでもらいたい」という思いから投稿サイト「小説家になろう」に投稿したという経緯があるそうです。
 
なので、桜良ちゃんのエロゲヒロイン的な言い回しといい、やはり本作の根底にも美少女ゲームないしラノベ的な文法構造が見て取れます。
 
あらすじはこうです。
 
クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。これがきっかけとなり二人の、親友でも恋人でもない、不思議な「なかよし」の関係が始まっていく。
 
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いわゆる難病系、余命系というカテゴリになるんでしょうけど、そこはもちろん一捻り加えられており【僕】の視点に同一化して読んだ場合、かなりのインパクトをもたらすようにできてます。
 
また、桜良ちゃんの正式な病名とかは明らかではなく、家族とか医療関係者などの「社会的な描写」がほとんど出てこないというのは一つの特徴です。
 
そのため【僕】と桜良ちゃんの日常の中で「死」はそこまでリアルではない、どこかふわふわしたものになっています。それだけに僕が彼女の「リュックの中のもの」を見てしまう下りは、唐突な「現実との遭遇」として立ち現れます。
 
このように「死という現実的脅威」と「主人公-ヒロインの想像的関係性」が「社会という象徴的中間項」を介さずに直結しているかの如く読み手に錯覚させる辺りは、いわゆる「セカイ系的なもの」の影響が感じられたりもします。
 
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ともかくも、桜良の中には、確実に鳴動を始めた「死」があるわけです。
 
そこで彼女のとった選択は「死を受け入れることでも」でも「死から逃避すること」でもなかった。彼女のとった選択は死を客観的にまなざしつつも生を最大限に「欲望」するということであった。
 
この点、フランスの精神科医ジャック=ラカンに言わせれば、人間の「欲望」の本質とは〈他者〉への「満足の要求」と「愛の要求」の中央で弁証法的に成立する「〈他者〉の欲望」だということです。
 
つまり、桜良が自らの「欲望」を全うするには、彼女の死を共有しつつも、彼女の欲望を弁証法化させる〈他者〉の存在が必要になるということです。
 
もっとも「〈他者〉の欲望」とは「〈他者〉を欲望する」という意味と「〈他者〉が欲望する」という意味を含み持っている。
 
だからキョウコはこの位置を担えないのです。仮にもし彼女が真実を知ったならば、それこそ死に物狂いでありとあらゆる桜良の「満足の要求」を悉く叶えようとするのは明らかでしょう。つまりキョウコは彼女の欲望を弁証法化できない。だからこそ桜良はキョウコに真実を告げなかった、あるいは出来なかった。
 
一方で【僕】は生来の閉じた性格からいつもシニカルで冷淡な態度で彼女をあしらう一方、【僕】は自分と正反対である彼女の内的世界の探求にかけては極めて真摯かつ貪欲です。つまりここでは「〈他者〉が欲望」しているということです。
 
こうして、この二重化された【僕】の態度が図らずも桜良の「満足の要求」と「愛の要求」の間の隘路を行き、最期まで彼女の欲望を開き続けた。ラカン箴言を借りれば「愛とは自ら持っていないものを与えることである」。そういうことでしょうか。
 
「君は、 きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。」
 
「お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。 家族は、 私の発言一つ一つに 過剰反応して、 日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、 知ったらそうなると思う。 」
 
「君だけは真実を知りながら、 私と日常をやってくれてるから、 私は君と遊ぶのが楽しいよ」
 
住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)
 
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もちろん【僕】自身は、自らのそんな立ち位置には無自覚的であり、ゆえに最後までその位置にとどまることは出来ていません。【僕】が自らの「桜良への欲望」をはっきりと自覚して、あの例の言葉を紡ぎだした時、既に彼女はもうこの世から「勝ち逃げ」してしまっている。
 
つまり彼女にとって「死ぬ前に殺された」ことはある意味で最期まで「死ななかった」ということでもあり、【僕】にとっては彼女と最期まで「出会い損なっている」ということです。
 
このように本作は「生の欲望に満ちた物語」でもあり「出会い損ないの物語」でもあるという両義性を孕んでいるわけです。本作が幅広い層の共感を呼んだ理由というのも、何かその辺りにあるような気がします。
 
 
桜良はいう。誰にとっても1日の価値は一緒であると。そして人の行動は運命でも偶然でもなく意思による主体的選択であると。こういった考え方は我々にこの凡庸な日々の瞬間ひとつひとつが何ものにも代えがたい特別なものであることを認識させてくれます。最後は青春小説らしい涼しげな読後感が残りました。