かぐらかのん。

日々のくらしのメモ帳です\(^o^)/

かがみのように共感するということ

人は誰かから「悩み相談」など受けた時、どうしてもつい、何か「アドバイス」をしたくなるものですよね。
 
しかし、アドバイスは概して役に立たないことが多いと言われます。もちろん、客観的な情報提供で物事が解決する時もあるでしょう。例えば、相談の中身が連立方程式の解き方とかiPhoneの操作方法などです。そういうのは普通にアドバイスすればいいんですよ。
 
けれど、問題がその人の人生観や世界観といった主観的な領域に密接に関連する場合、「正しい人生観や世界観」なるものが存在しない為、よっぽど相談者が助言者に心酔していない限り、アドバイスが功を奏することはないとみていいと思います。時にはその内容が「正論」であればあるほど、相手の反感を買ってしまうこともあるでしょう。
 
そういう悩みを打ち明ける人は「アドバイス」を聞きたいのではなく、「共感」が欲しくて悩みを打ち明けていることが多いのです。
 
一般的に「悩み相談に対してはアドバイスではなく、共感が大切」と言われます。
 
共感とは、カウンセリングの神様と言われたカール・ロジャーズの言葉を借りれば「クライエントの内的な主観的世界を、セラピストがあたかも自分のものであるかのように感じ取り、 しかも巻き込まれずに、『あたかも~のような(as if)』という性質を失わないこと」などと言われます。
 
この定義は決して間違っていないでしょう。けど、いざ人の話を聴こうとする時、共感的態度に徹するというのはなかなか難しいものです。やっぱり何か喋りたくなって、毒にも薬にもならないアドバイスをしてみたり、「実は私も同じようなことがあって・・・」などと言い出したりして、いつの間にか話の主導権を取っていた、ってことだってあるでしょう。
 
そこまでいかなくとも、だんだん聞いているのがつまらなくなって、いつの間にか、適当な相槌というか、「生返事」になっていることもあるでしょう。こうなると話し手からすれば面白くない。「あの人なんかに言わなきゃよかったな・・・」という悪感情だけが残ったりしてしまう。
 
そもそもなんで人は共感なんか欲しがるんでしょうか?その理由がよくわからないまま、なんとなく相槌打ったりオウム返ししたりするから、だんだん態度が適当になっていくんだと思うんですよ。
 
個人的には、共感とは「鏡像段階の反復」だと思っています。
 
鏡像段階というのは簡単に言えば、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の幼児が鏡を見て自我を獲得するという、フランスの精神分析家ジャック=ラカンの提唱した発達段階概念です。
 
生まれて間もない赤ちゃんは、いまだ神経系が未発達なのでバラバラの身体イメージの中に生きており、いわばまだ「わたし」として生きているわけではなく、ある時。鏡の中に写った自分の姿を見て初めて「わたし」を「発見」するということです。
 
そして自分を「誰々ちゃん」と呼んでくれる両親を始めとした他者もある意味で「かがみ」です。つまり「わたし」は「あなた」によって作り出されていくことになります。
 
こうして、鏡像段階によって作り出された自我はその後も他者を鏡として二次的同一化を続けていき、その反復運動は死ぬまで続けられることになります。人は常に誰かに「かがみ」のイメージを投影して生きていくわけです。
 
なにが言いたいのかというと、要するに、目の前で話している人が求めているのは下手なアドバイザーなどではなく、鏡像段階の反復としての「かがみ」に他ならないということです。目の前で聴いている人が「かがみ」の役割になってくれることで、話してる側は「そうか、私はこう思っていたのか、こういう気持ちだったんだ」と自分の考えが自分の中で整理されていくわけす。
 
もっとも鏡像段階自体は本当に発達段階としてそういうものが存在するのかは学術的に異論のあるところです。ラカン鏡像段階の論証として様々な生物学の議論を参照していますけど、現代自然科学から見れば正直、結構怪しげなものも混じってます。
 
それでも意識の起源に迫った哲学の一つとして鏡像段階理論は今でも高く評価されています。
 
もちろん、それこそそんな、訳のわからない得体の知れない言説に「共感」などできるか、といわれたらそれまでです。
 
ただ、本当に大事なのは、そういう誰かの声に共感していく、耳を傾けて行く上での自分なりの物語を自分の中に作っておくということなんです。そういう物語があるのかないのかでは自ずと話を聴く態度も違ってくると思うんですよね。