かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

「発達障害のピアニストからの手紙(野田あすか)」を読んで。

 

CDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?

CDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?

 

 

 

* はじめに

 
本書は「発達障害のピアニスト」として知られる野田あすかさんのこれまでの生い立ちをご両親の手記とご本人の手紙によって綴っていく一冊です。
 
野田あすかさんのコンサートは一度行ったことがあるんですが、本当に楽しそうにピアノを弾く姿がとても印象的で、正直、音楽それもピアノ1本でここまで心が揺さぶられる体験というのもこれまでそうそうなかったことでした。
 
それで、この人はこれまでどんな人生の歩み手だったんだろうって思いまして。そういった経緯から本書を手に取ってみた次第です。
 
 

* 「広汎性発達障害」とは何か

 
発達障害の研究は第二次世界大戦期まで遡ります。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、その翌年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが「小児期の自閉的精神病質」という論文を発表しました。
 
この二つの論文では、子どもの自閉的行動様式についてのやや異なった考察が行われているわけですが、アスペルガー論文の方はドイツ語圏という理由から長きにわたり黙殺される憂き目にあう。
 
こういった事情で長らく「いわゆる自閉症」と言えば「精神遅滞」「言葉の遅れ」といった特徴を持つカナー型自閉症が連想されることになります。
 
ところが80年代になりイギリスの精神科医ローナ・ウィングによりアスペルガー論文が再評価され、「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」からなるいわゆる「ウィングの三つ組」によって自閉症の再定義が試みられる。
 
こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-Ⅴ)」においては、カナー型自閉症アスペルガー自閉症は「自閉症スペクトラム障害」として統合に至るわけです。
 
あすかさんの抱える「広汎性発達障害(PDD)」とはDSM -Ⅳ-TRにおける分類名であり、現行のDSM-Ⅴでいう「自閉症スペクトラム障害ASD)」に相当するものになります。その診断基準は以下の通りです。
 
以下のA、B、C、Dを満たしていること。
 
A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)
 
1 社会的・情緒的な相互関係の障害。
2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。
 
B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)
 
1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。
 
C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。
 
D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。
 

 

発達障害の理解を困難にしている理由の一つはその概念のわかりにくさにあります。そしてその一因として、この障害が辿ってきた上記のような歴史的紆余曲折が挙げられるのではないかということです。
 

* 安心サイクル

 
DSMの診断基準は翻訳の問題もあって回りくどい書き方をしていますが、端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。
 
まず「社会的コミュニケーションの持続的障害」ですが、具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」といった特性をいう。
 
例えば、あすかさんは次のように書いてます。
 
道徳の教科書に、「困っている人がいたら助けましょう」というのがあって、たとえば「泣いている人がいたら『どうしたの?』と声をかけましょう」と書いてありました。そうやって声をかけると『心配してくれてありがとう』とか、声をかけた相手から感謝の気持ちを返してもらえると書いてあったのです。
 
それで、自分は別に声をかけたくなくても、泣いている人がいたので、その通りに声をかけました。
 
「どうしたの?」
 
そうしたら、全く違う答えが返ってきたのです。
 
「どうもしないよ、放っておいてくれ!」
 
そう言われて、本当に困りました。
 
そんな返事は教科書に載っていなかったからです。本の中では、何度読んでも同じ答えが返ってくるのに、実際はそのお返事が返ってこない。どうしてみんな、本の通りに答えを言ってくれないの?
 
(本書46頁)

 

そして「常同的反復的行動・関心」については、あすかさんは「安心サイクル」という独特な表現を使っています。
 
私は変化しないものに、いつも頼っている。いつも学校から帰って、ピアノを弾いて、ごはんを食べて、お風呂に入って、宿題して寝る。それが安心サイクル。
 
いつもと違うと不安サイクル。
 
昔の私にとって変化のないはずのものは家族だった。いつも一緒だったから。でも家族にいろいろなことがあって環境がすごく変わってしまった。
 
(本書104頁)

 

あすかさんの自傷行為が顕在化しだしたのはいつも一緒にいたお兄様が他県の高校へ進学した頃からだそうです。つまりこの時に「安心サイクル」が破綻したわけです。
 

* 二次障害としての解離性障害

 
その後、あすかさんは宮崎大学教育文化学部に進学するも、人間関係のストレスから過呼吸発作を頻発。精神科を受診し「解離性障害」という診断名がつく。その後、入退院を繰り返し、折角入った大学も中退させられる憂き目に遭う。
 
解離性障害とは「自分が自分である」という感覚が失われている状態をいいます。あすかさんが繰り返してきた自傷行為も辛い体験から自分を切り離そうとする解離性障害の症状からくるものです。
 
また、あすかさんは右足が不自由ですが、これも解離発作を起こして家の2階から飛び降りた時の粉砕骨折によるものです。
 
右足が不自由なのはピアニストとしても大きなハンデです。左足しか使えないため、あすかさんは3つあるピアノペダルのうち右のペダルにアシストペダルをつけて左足で踏めるようにして、あとは手の指の力を加減することで音をコントロールしているそうです。
 
実はこの解離性障害発達障害から生じた二次障害の一つだったのですが、この時点で発達障害とはわからなかったわけです。
 
発達障害の存在が世間的にも徐々に認知され、発達障害者支援法が成立したのはあすかさんが発達障害と診断された翌年、2005年になります。
 

* 発達障害とわかってほっとしました

 
22歳の時、あすかさんは短期留学先のウィーンで過呼吸発作を起こし国立病院に搬送され、ここで初めて「広汎性発達障害」と診断される。
 
これは普通に考えれば絶望の追い討ちでしょう。解離性障害神経症的な症状であり、まだ治癒可能性が残されていますが、発達障害となれば、先天的な脳機能障害である為、治癒ということが考えられないからです。
 
ところが、動揺するご両親をよそにあすかさんは「発達障害とわかってほっとしました」と現実を受け入れ、発達障害が持つ「明の部分」に賭けていく決意をする。
 
「こんなに頑張っているのに、どうしてみんなできるのに、私にはできないのだろう」
そう悩んでいたのです。
 
そういうことが多かったから、発達障害だということがわかって、
「あなたの努力がたりないとかじゃなくて、そういう障害が生まれつきあったからですよ」
といわれたとき、
 
「ああ、なるほどね〜。だから、私はみんなと同じようにできなかったんだ」
そう納得して、ほっとしたのです。
 
(略)
 
それに、発達障害の人は、自分に興味のあることは、ふつうの人よりもっと上手にやっていくことができると本に書いてありました。
 
「ああ、だったら私はピアノをやってみよう、自分の大好きなピアノを精一杯頑張ろう」
 
そう思ったのです。
 
(本書150頁)

 

* ありのままの自分でいいと思えるようになりました

 
かつてあすかさんにとってピアノはやらされるもの、教えられた通りに弾かなければならないものだった。しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。
 
あすかさんにピアノの基礎を叩き込んだ高校時代の師匠である片野郁子先生は「この曲はこう弾くべき」という音楽性の的確な再現を重視される方だったそうです。
 
もちろんこういう基礎過程は大事な事なんだと思います。片野先生の後輩である田中先生はおそらくそういった力量を見極めた上で、技術的に上手な演奏をするだけではなく、自分の想いを音楽で表現することの大切さをあすかさんに教えます。
 
田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に開眼する。
 
小さい頃は、コンクールに入賞するために、その曲にあった音色通りに引かなければと、自分をおさえるピアノをやるしかありませんでした。まねごとのピアノはつらかったです。でも、田中先生に教えてもらうようになってからは、良くても悪くても自分の「こころのおと」を出せるようになって、ありのままの自分でいいと思えるようになりました。
 
(本書168頁)

 

ここからあすかさんの人生が少しずつ好転していく。2006年の宮日音楽コンクールグランプリを皮切りに、第8回大阪国際音楽コンクールにてエスポアール賞、第9回ローゼンストック国際ピアノコンクールでは奨励賞を受賞。
 
ついで2009年、国際的なピアノの祭典、第2回国際障害者ピアノフェスティバルにて銀メダルを獲得。併せてオリジナル作品賞、芸術賞も受賞。また、この大会の出場を機として、発達障害であることを隠さず生きていく決断をする。
 
そして2011年、周囲がどう考えても無謀だと反対する中、初のソロリサイタルに挑み、これを見事成功させる。こうしてあすかさんの前にピアニストとしての未来が、自分の「こころのおと」を誰かに聴いてもらうことを喜びとする新たな地平が開けてきたわけです。
 
 

* 「〈他者〉の欲望」への参照点としての「みんながしあわせになるピアノの音」

 
今、学校や職場で障害があることでつらい思いをしている方々に、
「きっとこれから先、いいことが待っている」
そう感じてもらえる演奏をするのが、私の理想です。
 
私は何もできませんが、でもあなたの心に希望は与えられます。言葉ではなくて、音で、みんなに思いを伝えられて、みんながしあわせになるピアノの音を出せる。そんなピアニストになるのが理想です。
 
(本書181頁)

 

フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが提出した有名なテーゼに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあるのですが、ASDの特性はこうした「〈他者〉の欲望」という視点から捉えることができます。
 
ASDの場合「〈他者〉の欲望」は特に「わからなさ」という強い不安として顕在する。そこで、このような不安を囲い込み無効化し〈他者〉とつながるため何らかの参照点が必要になってくる。
 
それは例えば「安心サイクル」であり、時に解離の症状であり、あるいは「発達障害」という診断もそうだったのかもしれない。
 
こうしてみると「みんながしあわせになるピアノの音」というのは何度とない絶望を繰り返した上でようやく辿り着いた幸せな参照点だったのではないでしょうか。
 
 

* おわりに

 
このように本書はASDの詳細な臨床事例であると同時に、我々が日々「生きづらさ」に向き合う為のひとつの処方箋でもあります。
 
発達障害とは決して「どこか誰かの他人事」の話ではなく、我々の日常と地続きの問題でもあると思うんです。 
 
人は程度の差はあれ、誰しもその人だけが持つ「特異性」を抱えながら「〈他者〉の欲望」の世界を生きていかなければならない。まさに「生きづらさ」という問題はここから生じてくるわけです。
 
けれども〈他者〉とつながることで初めて「特異性」という小さな煌きは「個性」と呼ばれる大きな輝きになっていくのではないでしょうか。
 
どのようにして自らの特異性に折り合いを付け、どのようにして〈他者〉とつながっていくか。こうした点においても、本書から教えられる事は本当に多かったです。
 
 
 
 

「AIR」における日本的「あわれ」の感性

 
 
 
AIR」というノベルゲームはご存知でしょうか?ゲームブランドKeyより2000年に発売され、このジャンルとしては異例の売上本数を記録した「泣きゲー」の代名詞です。
 
今日は本作のヒロイン、神尾観鈴ちゃんの命日なので少しAIRの事を書いておこうと思います。
 
AIR メモリアルエディション 全年齢対象版

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* 「誰かと仲良くなること」という「禁じられた遊び

 
AIRのシナリオは三部構成となっており、第一部「DREAM編」では、放浪を続ける法術使いの青年(国崎往人)が、海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれます。
 
観鈴ちゃんはいつもニコニコしているとても明るい子なんですが、彼女には友達がいません。彼女は誰かと仲良くなれそうになる時に限って、癇癪を起こしたように泣きじゃくるという不安発作を起こしてしまうからです。
 
これは観鈴が「最後の翼人」である神奈備命の転生体であることに由来しています。
 
第二部「SUMMER編」で描かれるように1000年前の当時、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。
 
その呪いのうちの一つが「親しくした他者を死に至らしめる」というものです。 翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。
 
つまり、神奈の転生体である観鈴も、翼人の呪いに蝕まれているわけです。 すなわち、彼女にとって「誰かと仲良くなること」はまさしく「禁じられた遊び」に他ならない。故に無意識から回帰してくる罪責感への防衛として観鈴は不安発作を発症させてしまうわけです。
 
それでも「この夏を特別にしたい」という一心から無理を重ねる観鈴ちゃんの姿は観る者の心を打ちます。それも結局は「萌え要素のデータベース消費」なんだろうと言われれば返す言葉もないんですが、いずれにせよ観鈴ちゃんに感情移入すればするほど後半の展開が辛いものとなってくるわけです。
 

* 美少女ゲームの臨界点としてのAIR

 
本作品の終章である第三部「AIR編」においてはプレイヤーは一羽のカラスでしかなく、観鈴ちゃんがどんどん壊れていく光景を終始ただ傍観することしかできません。まさに精神を抉り切られるような遣る瀬無さです。
 
この感情は一体なんなんでしょうか?この点、批評家の東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生」収録の論考「萌えの手前、不能性にとどまること」において、AIRはいわゆる「美少女ゲーム」というジャンルの臨界点を示す作品であると論じます。
 

 

ここで「臨界」とは、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまうことをいいます。
 
通常、美少女ゲームと呼ばれるジャンルの作品においては、プレイヤーは主人公に同一化し、ある特定のヒロインと繊細なまでの「純愛」を添い遂げる一方、プレイヤーは複数のシナリオを俯瞰して複数のヒロインを「攻略」することを目指すわけです。
 
つまりプレイヤーの中では、キャラクターレベルでの「 小さな恋の物語における純粋性=反家父長的感覚」と、プレイヤーレベルでの「物語を産出するシステム全体を支配するかの如き全能性=超家父長的感覚」が解離的な形で共存しているということです。
 
ところがAIRはこのような解離的共存を許さない。この作品はプレイヤーを二重の意味で疎外する。
 
つまりこういうことです。まず第一部において国崎往人観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされる。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになる。
 
さらに、第三部においては先の通り、主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかない。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルそのものにおいてシステム自体からも疎外されることになる。
 
こうした構造的疎外の手続きを経ることで、プレイヤーの持つ「反家父長的感覚」と「超家父長的感覚」の解離的共存の裏にある自己欺瞞が図らずも暴きだされることになる。 それは美少女ゲームにおける「システム全体を支配するかの如き全能性」とは、ただただ「システムの外側にいるだけの不能性」と表裏の関係を成す錯覚に過ぎないという冷酷な現実です。
 
そういった意味から東氏はAIRは「臨界的=批評的な作品」だと呼ぶわけです。
 

* 二重疎外による不能性と日本的「あわれ」の感性

 
こういう風に書くと何か、AIRという作品はせめて二次元で夢を見たい人に現実を突きつけてくるとても残酷な作品のように思えるかもしれません。
 
けど、AIRがもたらすカタルシスは「純愛」とか「攻略」などといったレベルとはまた違うところにあるんだと思うんです。
 
そもそも「AIR」ってものすごく日本的な物語なんですよ。日本の昔話は鶴、亀、蛇、魚などの生き物が女性の形をとって男性の前に現れる「異類婚姻譚」と呼ばれるパターンが多く、また、西洋の昔話は男女の結合(結婚)という結末が多いのに対し、日本の昔話は諸事情あって最終的に女性が立ち去っていくという結末が多いわけです。典型的には「鶴の恩返し」とかですね。
 
この点、臨床心理学者の河合隼雄氏は、日本の昔話においては男女の結合の代わりに「無」が生じているといいます。「何も起こらなかった(Nothing has happened)」とは、語順通りに和訳すると「無が生じた」ということになります。
 
そして河合氏はこのような日本の物語は「あわれ」という感性によって特徴づけられていると指摘しています。「あわれ」とは単純な「悲しみ(Sadness)」ではなく、儚さを慈しみ愛でる日本人独特の感性であると氏は言います。
 
そういう観点から言えば、翼人という異類が少女の姿をとって男性の前に現れ、最後には消え去っていく「AIR」はきわめて日本的な物語だということになるでしょう。
 
そうであれば、本作がキャラクターレベルとプレイヤーレベルで突きつけてくる二重疎外による不能性とは、まさしくこの「あわれ」の感性と繋がってくるわけです。
 
本作がノベルゲームとしても特異な部類に属するにも関わらず、普遍的名作として広範な支持を獲得したのは、このような日本人の感性を見事に捉えていたからではないでしょうか。
 

 

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ポストモダンは物語の夢を見るか?

 
ポストモダンというのは結局のところ、何なのでしょうか?久しぶりに「動物化するポストモダン」を読み返していました。本書は「オタク」と呼ばれるサブカル系消費者の行動様式から「ポストモダン的主体」とは何かを考察していきます。
 
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
 

 

そこで提示されるモデルを肯定するか否定するかは別としても「萌え要素」という概念を初めて世に提唱した功績と、出版後17年たった現在も様々な文脈で参照され続けられるという意味で本書はやはり名著であることになるのでしょう。
 

* 「物語消費」から「データベース消費」へ

 
本書はポストモダンとは「大きな物語」が失墜した時代であると定義します。 「大きな物語」というのは社会全体が共有するイデオロギーです。日本の場合、戦後しばらくの間は「戦後民主主義」や「高度経済成長」といった「大きな物語」が機能していたわけです。
 
もちろんこういった「大きな物語」に反発する「暴力革命による労働者政府の樹立」などという、また別の「大きな物語」もあったりはしましたが、何れにせよ人々は立場の違いはあれど「きっと明日は今日よりもっと良くなる」という素朴な幻想を信じることができたわけです。
 
ところが「政治の季節」が終焉し、オイルショックで経済成長も陰りを見せ始めた1970代から「大きな物語」が機能不全を起こし始める。 そこでこれを補填するために「(虚構としての)大きな物語」ーーーここでは便宜上「大きな偽物語」と呼びますーーーが必要となってくる。こうして人は生きる支えをイデオロギーではなくサブカルチャーに見出していく。
 
これを「物語消費」といいます。例えば「機動戦士ガンダム」といった「個々の作品=小さな物語」を通じて、例えば「宇宙世紀」といった「世界観や設定=大きな偽物語」を消費する行動様式です。
 
けれども本書からすれば「大きな偽物語」の希求というのはいわゆる過渡期的な現象に過ぎない。やがて「大きな物語」への信仰衰退が加速していくにつれ「大きな偽物語」さえも必要としない時代が到来することになる。
 
これがまさしくポストモダンです。 例えば「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の後景にあったのは「大きな偽物語」ではなく、視聴者がそれぞれ都合の良い物語を読み込む情報の集合体であったと本書は言います。
 
本書におけるエヴァの評価は異論も多いでしょうが、ともかくも本書はこのような「大きな偽物語」に取って代わる作品の後景領域を「大きな非物語=データベース」と呼ぶわけです。
 
「大きな非物語=データベース」は階層的になっており、まず個々の作品の背景には個々のキャラクターレベルでのデータベースがあり、さらにその背後には「萌え要素」といったサブカルチャー市場全体の共通言語となるデータベースがあります。
 
こうして個々の視聴者が例えばアニメやゲームなどの「個々の作品=小さな物語」を消費するということは、畢竟するに「萌え要素」という「データベース消費」に他ならないということです。
 

* ドラマへの欲求とシステムへの欲望

 
このような消費行動様式の下では「原作」というオリジナルは必ずしも絶対的存在ではない。結果、オリジナルとコピーの区別は相対化し両者の中間形態である「シュミラークル」が氾濫する。
 
近代のツリー型世界では「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて大きな物語にアクセスしていた。「小さな物語」は「大きな物語」において規定されている。ゆえに(近代的な意味での)小説の結末は一つだけしかありえない。
 
これに対してポストモダンのデータベース型世界では「データベース」の組み合わせ次第で無数の「小さな物語=シュミラークル」が生産可能となる。ゆえにノベルゲームの結末は複数あり、プレイヤーはあるシナリオで一人のヒロインと「純愛」を遂げつつも、そのシナリオが終わるや否や次のシナリオで別のヒロインとこれまた「純愛」を遂げるという極めて矛盾した態度が可能となるわけです。
 
こうしてシュミラークルの水準で生じるドラマへの動物的欲求とデータベースの水準で生じるシステムへの人間的欲望という二つが解離的に共存することになる。 これが本書の示すポストモダン的主体、すなわち「データベース的動物」ということになります。
 

* 理想、虚構、動物化

 
以上のような時代認識を前提として本書は戦後日本社会の時代認識を以下の3つに区分します。
 
まず1945年から1970年までが「大きな物語」が曲がりなりに機能していた「理想の時代」。
 
次に1970年から1995年までが「大きな物語」の機能不全を補填する「(虚構としての)大きな物語」を必要とした「虚構の時代」。
 
そして1995年以降は「物語消費」から「データベース消費」に転換した「動物の時代」である、ということになります。
 

* ポストモダンは物語の夢を見るのか?

 
さて。2018年のいま、本書の描き出した「ポストモダン」はどの程度、時代を説明できているのでしょうか?
 
昨今における日常系アニメの氾濫はまさに「萌え要素」というデータベースから産出されるシュミラークルの際限のない消費と言えるでしょう。 また「初音ミク」などはまさにシュミラークルを無限に産出できるデータベースそれ自体です。
 
一方、「シン・ゴジラ」や「君の名は。」の社会的ヒットなどは「日本再興」や「絆の力」といった「大きな物語」を希求する「物語消費」が未だ根強い事を示している気がするわけです。
 
もっともこれらも「燃え」とか「感動」とかいった「萌え」とはまた別のデータベースから生み出されたある種のシュミラークルであるという理解も必ずしも不可能なわけでは無いでしょう。 こうした観点から言えば「物語消費」と「データベース消費」というのはある意味で相対的なものであるとも言えるかもしれません。
 
 

「河合隼雄スペシャル (100分de名著)」を読む。中空構造とカウンセリング。「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

 * 中空構造とカウンセリング。

 
まさに汲めども尽きぬ思索の泉とはこのことでしょうか。超一流の臨床家であると同時に卓越した思想家でもある河合隼雄の仕事を、氏の中核的著作である「ユング心理学入門」「昔話と日本人の心」「神話と日本人の心」「ユング心理学と仏教」を通じて簡明に概説した一冊です。
 
河合氏の昔話、神話、仏教に対する深い知見は、ただの文化論に止まらず、常に氏の本業であるカウンセリングの理論や技法とリンクしています。
 
例えば氏は古事記などの神話の読解から日本人の精神構造を「中空構造」と言い表します。すなわち、意識的なものと無意識的なもの、母性的なものと父性的なものなど様々な相対立するものの中心にはこれらを統合する「空」として無為の神がいるという。
 
これは対立する二つの位相の中心で自らを「空」に位置付ける氏のカウンセリング観に通じるものがあります。
 

* 「わかる」と「わからん」の間で。

 
カウンセリングの過程においてはしばし、対立する二つの位相が現れます。
 
例えば、カウンセラーの基本的態度として広く知られる「無条件受容・共感的理解・自己一致」というロジャーズ三原則というものがありますが、この原則自体しばし矛盾をはらんだものとして指摘されます。
 
カウンセラーはクライエントの言葉を「無条件受容」する。カウンセラーはその受容を「共感的理解」としてクライエントに伝え返す。なによりもカウンセラーの態度は裏表のない「自己一致」したものでなければならない。
 
ロジャーズに言わせればカウンセラーにこの3つの態度が完全に備わっていればクライエントの悩みは必ず好転するという。
 
けど、これほど言うは易し行うは難しと言う営みもそうそうないでしょう。どうしても「無条件受容」できないクライエントの言動を前にカウンセラーはどうあるべきなのでしょうか。
 
「あなたの気持ちはわかる」と共感したふりをすれば「自己一致」に反してしまう。さりとて「あなたの気持ちはわからん」と本音を言えば「共感的理解」を示せてないことになる。まさに二律背反です。
 
この点、氏はカウンセラーとは「わかる」か「わからん」かの二者択一ではなく、「わかる」と「わからん」の間でフラフラになることでクライエントの苦しみを共有する「生きた態度」を持たなければならないという。
 
これはまさに対立する二つの位相の中心で自らを「空」に位置付ける氏のカウンセリング観の端的な表れと言えるでしょう。
 

* 「甘え」という癒し、「理解」という究め。

 
またそもそもカウンセリングとは二者関係を三者化することで得られるメタ認知を創出する営みと言えます。 その為には「甘え」という癒しの体験と「理解」という究めの体験が絶妙なバランスで円環的に進行していかなければならない。
 
このしばし相反するバランスを創り出すため、カウンセラーはその中心で「何もしないこと」に全霊を賭ける無為の神であらねばならないというです。
 

* 「生きられなかった半面」を取り入れて生きていく。

 
ユングは意識体系の中心である「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の中心に「自己」という元型を仮定し、自我と自己との間に望ましい相互作用関係の確立の必要性を強調する。
 
そして、この過程を「自己実現」と呼びます。 ユングの言う「自己実現」とは、相補性の原理と共時性の原理で駆動する自己の全体性の回復の過程であり、自我がこれまで切り捨ててきた「生きられなかった半面」を統合していく道のりをいう。
 
この点、河合氏はいわゆる「戦中世代」に属し、少年期に受けた軍国主義的教育から「日本的なもの」「不合理なもの」に対して嫌悪感を抱き、その反動で青年期は西洋的合理主義、科学万能主義に傾倒するわけです。
 
ところが留学先の指導教授が偶然、ユング派の分析家だった縁からユング派に導かれ、後年は周知の通り、昔話、神話、仏教といった領域をライフワークとして取り組んでいくわけです。これらはまさしくかつて氏が嫌悪した「日本的なもの」「不合理なもの」に他なりません。
 
このような氏の人生自体、「生きられなかった半面」を取り入れて生きていく、まさにユングの言う自己実現の過程であるといえるでしょう。
 

* 「あなただけのきらめき」を見つけましょう。

 
ユングのいう自己実現の過程は巷でよくキラキラしたもののように言われる「自己実現(笑)」とは異なり、むしろドロドロしたものです。
 
けれどもそれは、ある意味で希望を示すものでもあります。人生を実り豊かなものにして幸せでいる鍵は容姿でもお金でも社会的地位でもない。むしろしばし理不尽とも言える日常の困難の中で見い出せる「あなただけのきらめき」にあるということです。
 
 
 

エディプスコンプレックスの物語として観る「未来のミライ」

 
 

* 「欲望の主体」としての自立

 
これまで一人っ子だった「くんちゃん」が妹の「未来ちゃん」の誕生を切っ掛けに、「二者関係の三者化」というエディプスコンプレックスを経て自己を獲得していくというお話だと思いました。
 
エディプスコンプレックスなどと言うと何か荒唐無稽なものと捉える向きも多いでしょう。けど、ここでいうエディプスコンプレックスは、ジャック・ラカンが構造化したような、子供と母親(養育者)の間に「言葉」を始めとした「社会のルール」が介在する過程であると理解すればなんら荒唐無稽な話でもないかと思います。
 
この点、伝統的な精神分析の理解から言えば、エディプスコンプレックスを起動させる為の〈父の名〉を担うのは実際の父親ということになるんですが、父権がおよそ失墜した現代においては必ずしもそうでないことの方が多いわけです。
 
本作の父親も現代の父親らしく〈父の名〉としてはほぼ機能していません。良くも悪くも父親が「イクメン」として奮闘すればするほど皮肉なことに〈父の名〉から遠ざかってしまう現実があるということです。
 
面白いのが、その代わりに未来から来た妹や若き日の曾祖父が〈父の名〉の機能を果たしている点です。すなわち〈父の名〉とは属人的なものではなく純粋な機能であると言うことがよくわかります。
 
そしてラカンによれば、子どもは〈父の名〉を受け入れることで「象徴的ファルスへの欲望」が生じるといいます。
 
象徴的ファルスというのは、いわゆる「社会的な成功体験」の獲得のことです。子どもは最初、母親が常にそばにいない事がフラストレーションでわけがわからなく泣き叫ぶことしかできませんが、徐々に「社会的な成功体験」を積み重ねることで母親が褒めてくれるというルールを学んでいく。そのうち社会的な成功体験の獲得自体に楽しさを見出していく。こうやって子どもは母親べったりから、あれをしたいこれもしたいという「欲望」を獲得していくということです。
 
まさに若き日の曽祖父にオートバイに乗せてもらった体験がきっかけで自転車に乗れるようになったエピソードは象徴的ファルスの獲得として理解できるでしょう。
 
このように本作は、幼児の中にエディプス葛藤が芽生え「欲望の主体」として自立していく過程を描いた作品とも言えます。そういう観点から言えば本作はとても秀逸な出来だと思います。
 
 
疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ

疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ

 

 

 

* 何年か後に評価されるタイプの作品なのかも

 
ただ、Twitterで見かけた「よそん家のホームビデオ」という感想の通り、物語として素直に共感できる層は割と限られそうな気がしますね。
 
確かに予告編だけ見ますと壮大なファンタジー的物語を期待してしまうと思うんですよ。なので予告編観てイメージを膨らませてきた人ほどちょっとそのギャップにがっかりしてしまうのもわからなくもないです。
 
まあ何というか、これは本作の出来不出来というよりマーケティング側の問題なのでしょう。「この夏最大の感動作」とやらを求めて劇場に足を運んだ方々には満足行く作品ではなかったかもしれませんが、もしかしたら何年か後に評価されるタイプの作品なのかもしれませんね。
 
なお、本作で色々起きる不思議体験はタイムリープ的何かのSFな理屈ではなくて、ユングが言う「集合的無意識」へアクセスした結果の白日夢だと考えるとちょうど良い理解かと思います。クライマックスで出てきた樫の木などまさに、くんちゃんの家系の集合的無意識の象徴に他なりません。
 
そういうわけでして、裏を返せば他人の家のホームビデオを観て幸せな気分になる方にとって本作は是非おすすめということになります。未来のミライというタイトルの割に肝心の未来の未来ちゃんの出番がそんなにないのが玉にキズですが、ひぃじいじは痺れるほど格好良いし、東京駅の映像美は素晴らしいと思います。
 

 

未来のミライ (角川つばさ文庫)

未来のミライ (角川つばさ文庫)

 

 

「こころの病に挑んだ知の巨人(山竹伸二)」を読む。こころの問題の本質に迫る。

 
日本が世界に誇る5人のセラピストの業績の比較検討を通じて、こころの問題の本質を考えようとする一冊です。
 
森田療法という日本独自の心理療法を生み出した森田正馬。「甘え」の観点から精神分析の再構築を試みた土居健朗。ユング心理学箱庭療法の導入を通じて今日の臨床心理学の礎を築いた河合隼雄。「あいだ」の思想、時間論、生命論を軸とした精神病理学を打ち立てた木村敏風景構成法統合失調症の治療論で名高い中井久夫
 
これだけ見れば、五人五様、それぞれバラバラなことをやっているようにも思えますが、各人それぞれが言わんとする意図を読み解いていくと、本質的には同じものを別の視点で語っている事が多い事に気づかされます。内容はかなり専門的ですが、論述は極めて明快で、要所でまとめを入れたりと読みやすいです。
 

* 症状という不安への防衛

 
中井氏は精神疾患の様々な症状を一種の不安への防衛反応と捉えます。また、木村氏は患者は症状によって一種の自己治癒を行なっていると言います。
 
人は誰でも愛と承認を求める生き物です。けれども当然これらは100%完全に満たされることは決してありません。
 
人はこの「満たされなさ」という根源的な不安に直面したくないからこそ、症状を自ら生み出して「これさえなければ全てが満たされるのに」と苦しむことで本当の問題を先延ばししているわけです。
 

* 自己了解という営み

 
森田氏によれば、沸き起こる不安、恐怖、強迫観念を「あるがまま」に感じ尽くせば、本来的欲望である「純な欲望」が顕現するという。また、土居氏によれば、治療者の解釈によって患者は自分の行為の意味を理解し「私は何を欲しているのか」が見えてくるという。あるいは、河合氏によれば、心理療法とはクライエントが無意識の発見を通じて自己の「物語」を紡いでいく過程に他ならない。
 
これらの営みに共通するのは「自己の思考や感情への気づき」です。本書の言葉で言えば「自己了解」です。
 
心理療法が目指す目的とは不安、恐怖、強迫観念といった症状の消去ではなく、むしろそれらの症状を自分のものとして引き受けてなお「これでよい」とイエスを言うための営みと言えます。まさに、フロイトの名言にある通り、人の強さは弱さの中から生まれるのです。
 

*二者関係の三者化 

 
先に述べたように人の根底に愛と承認への欲望があり、十分な愛と承認を経験していない患者にとって甘えの体験、母子一体的な二者関係の構築は不可欠です。
 
けれども、濃密な二者関係はどっぷり浸かってしまうと、患者は治療者に依存してしまい、治療者の愛と承認だけが正しさの基準となり、自分を見つめ直す機会が生じてこない。
 
そこで、二者関係が一定の段階に達した時、治療者は第三者として解釈などの介入を通じて患者の自己了解を進めていかなければならない。そうすることで患者は他者とつながりつつも他者から自立した存在として生きていくことができるわけです。
 
土居氏は精神疾患の原因を「屈折した甘え」として捉え、治療者が患者の「甘え」を共感的に捉えることで、患者が正常な甘えを体験的に理解することの必要性を説きつつも、治療者は患者に同一化したままではいけないと言う。
 
また河合氏も心理療法の過程を母性原理(誤りや弱さを受け入れて包み込む作用)と父性原理(誤りを正して自立を促す作用)のバランスで考えます。
 
同様な視点は中井氏の統合失調症の治療論にも見られます。周知の通り氏は風景構成法の提唱者として知られていますが、重要なのは作品という第3の対象が治療者と患者の二者関係に伴う危険性を防ぐ力があるという点です。
 
このように治療者は包み込む母性と切り離す父性を共存させていないければならないということです。そして河合氏が強調するように両者のバランスは文化圏によって異なってきます。 西洋に比べて母性原理社会である日本においては、母性原理を基礎としつつ、どの段階で父性原理を取り入れていくかという問題があるわけです。
 

* おわりに

 
上記に述べたようなテーマは現在の心理療法のスタンダードである認知行動療法とも重なる部分が多いでしょう。自動思考を書き出すコラム法などまさに「不安」をコラム用紙という「第3の対象」上で可視化して「自己了解」を得るための技法です。
 
そういう意味で本書は単なる「偉人伝」ではなく、日々、生起する何がしかの「生きづらさ」という問題に取り組む上で多くの示唆を得る事が出来る実用性を備えた一冊といえるでしょう。
 
 
 
 
 

「羊と鋼の森(宮下奈都)」の感想。「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 

羊と鋼の森 (文春文庫)

羊と鋼の森 (文春文庫)

 

 

奇妙な取り合わせのタイトルだなあなんて思っていたら、なるほどピアノのことでした。羊のフェルトのハンマーで鋼の弦を響かせるピアノは打楽器でもあり弦楽器でもあります。
 
2016年本屋大賞。本作のテーマは「調律」です。
 
主人公である外村は高校生の時、偶然、自分の高校のピアノの調律にやってきた板鳥の調律に魅せられてこの世界に入ろうと決意。調律の専門学校での2年間を経て、幸運にも板鳥が勤める楽器店に採用され、調律師として試行錯誤しながら一歩ずつ前に進んでいく。そういう職業小説であり、青年の成長譚でもあります。
 

* お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ。

 
調律はまず49番目のラの音を440ヘルツに合わせるところから始まります。 ちなみに赤ん坊の産声も世界共通で440ヘルツだそうです。
 
そして、それを基準として12の音階を88の鍵盤に割り振っていく。そういう意味で調律は星座の布置にも似ているかもしれないですね。奇しくも星座の数も88なんです。
 
ただ、調律が普通の家電製品のメンテナンスとは明確に違うのは顧客の求める「理想の音」というのが顧客の数だけ無数にあるということ。そしてそれは多くの場合、明確な数値ではなく抽象的なイメージでしかないということです。
 
外村の先輩調律師である柳の言葉で言えば「お客さんが求めるのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ」ということです。
 
美しいラ。その響きにいかに共鳴し、どう答えて行くかという哲学は個々の調律師によって当然異なってくる。 本書に登場する先輩調律師、板鳥、柳、秋野は三者三様に個性的です。この辺りが作品のポリフォニーを豊かにしています。
 

* 相対立する二つの相の複雑な統合としての「美しいラ」

 
まず、顧客の「美しいラ」に共鳴するにはまずは調律師自身が理想的な「美しいラ」の明確なイメージを持つ必要があるんでしょうね。この点、板鳥は原民喜の言葉を引いて外村に明快な到達点を示します。
 
「明るく静かに澄んで懐かしい文体 、少しは甘えているようでありながら 、きびしく深いものを湛えている文体 、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体 」
 
この言葉が意味するのは相対立する二つの相の複雑な統合です。そしてそれは同時に、本作が目指した文体でもあり、後に述べるように作中の根底にある主題とも重なるものがあるでしょう。
 

* 言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか。

 
では、今度は顧客の求める「美しいラ」にどう共鳴して行くのか?
 
この点、柳の次の禅問答のような言葉はかなり示唆に富むものがあります。
 
「言葉を信じちゃだめだっていうか、いや、言葉を信じなきゃだめだっていうか」
 
おそらくこれは「言っている事」と「言わんとしている事」の間にある種の「裂け目」に生じるシニフィカシオンを読むということではないでしょうか。
 
実際に柳は、「以前と同じ音にしてくれ」という依頼主である老婦人のリクエストにも関わらず、ピアノを以前よりも豊かに鳴らすよう調律をする。その真意について柳は次のように述べる。
 
「元の音、っていうのが問題なんだ。あの人の記憶の中にある元の音より、記憶そのもののほうが大事なんじゃないか?小さな娘さんがいてピアノを弾いていた、幸せな記憶」
 
見方を変えれば「美しいラ」なるものは最初からどこかに存在するわけではなく、顧客と調律師の間の間主観的な関係性の間で共決定されるものなのなのかもしれません。
 
こうしてみると調律とはピアノ、そして人というどちらも繊細な存在を相手にする仕事であるとも言えるでしょう。
 
逆に秋野は「美しいラ」とは一定の距離をおいたスタンスをとります。弾き手の力量を考慮して、演奏にアラが出ないようあえてピアノの鳴りを抑えるような調律をすることもある。
 
できないのではなくやらない。これは自らのピアニストとしての挫折経験からくる彼なりの哲学であり、むしろこれはこれでプロのサービスマンとしての矜持を感じるものがあります。
 

* ピアノを食べて生きていくんだよ。

 
こうして青年は駆け出しの調律師として鬱蒼とした羊と鋼の森の中を彷徨う中、ある日ふたごの妖精に出会うわけです。
 
先輩調律師の柳について初めて訪問した顧客先。ピアノを弾くのは高校生の双子の姉妹です。
 
双子なんですけどピアノの演奏スタイルは全く対照的なんですね。勢いと彩りに満ちたピアノを奏でる妹の由仁に対して姉である和音のピアノは堅実ながらも面白みが欠ける。
 
これって長女あるあるなんでしょうか。きっと姉として妹に対して模範的なピアノを弾かなければならないという無自覚な思いが和音ちゃんの中にあってこういうスタイルになったのかもしれません。
 
つまり長女というペルソナで生きていくにあたっては過剰とも言える自分の特異的な部分を切り捨ててやってきたわけです。
 
柳も含め周囲の評価が高いのは由仁のピアノの方なんですが、ところが、外村は和音のピアノの方に惚れ込んでしまいます。彼だけはそれまで誰も気付かなかった和音の中にある確かな特異的な煌めきを垣間見たわけです。
 
普通じゃなかった。明らかに、特別だった。音楽とも呼べないかもしれない音の連なり。それが僕の胸を打った。鼓膜を震わせ、肌を粟立たせた。
 
それで、その後、由仁はピアノを弾こうとすると指が動かなくなる病気になってしまうんですね。この病気については詳しくは書かれていないんですが、おそらく神経症の一種でイップスのようなものらしいです。
 
和音は妹の病気に激しく落ち込んでしまうわけですが、やがて立ち直って行き、プロのピアニストを目指す決意をする。
 
「ピアノで食べて行こうなんて思っていない」
 
和音は言った。
 
「ピアノを食べて生きていくんだよ」
 
これを機会に和音のピアノは大化けします。もともとの持ち味であった端正さや繊細さに加え妹の華やかな部分をも自分のものにしたような演奏で周囲を脱帽させる。
 
そして和音に触発されるかのように、由仁もそして外村も自らの生き方を定めていくことになります。
 

* 「生きられなかった半面」を生きていくということ。

 
先ほど特異的な部分と言いましたが、和音にとって由仁はコンプレックスを抱く存在であるとともに「生きられなかった半面」であったと思うんです。
 
これはスイスの分析心理学者、カール・グスタフユングの言う「影」と言う概念に関わるんですが、裏返して言えば、これまでは由仁が和音の「生きられなかった半面」を生きていてくれたからこそ、和音はそのことで自己の全体性を保っていたとも言えなくもない。
 
だからこそ妹がピアノが弾けなくなった時、姉は葛藤を経ながらも、これまで妹が引き受けてくれていた「生きられなかった半面」を生きていくと決意したのではないのでしょうか。
 
こうして「影」を引き戻すことで、かすかな「きらめき」が大きな「かがやき」となった。ユング自己実現とは相対する二つの相を統合し自己の全体性を回復する過程であると言います。「生きている」と「生きていく」は僅か一文字の違いですがその意味するところは大きく異なります。本当の意味で「生きていく」というのは「これまで生きられなかったことを生きる」という営みなのではないでしょうか。
 
静謐な文体で紡ぎ出される穏やかで優しい時間が心地の良い読書でした。