かぐらかのん

本や映画の感想などを書き記していくブログです。

【感想】映画「君の膵臓をたべたい」

 

 

 

kimisui.jp

 

原作が出た時から満開の桜の表紙とグロテスクなタイトルの組みあわせに少し気にはなってましたが、結局読まず終い。今回実写映画化ということなのでとりあえず見てみるかという感じで、まったく予備知識なしで劇場へ。
 
物語のあらすじはこうです。
 
【僕】は高校の国語教師として母校に勤めている。机の中には書き終えた「退職願」。
 
そんな折【僕】は教頭から老朽化した図書館の蔵書整理を頼まれる。手伝う生徒と会話を交わすうち、いつしかの邪魔ばかりしていた迷惑な助手のことを思い出す。
 
12年前。クラスでなんとなく孤立している【僕】は、病院で古びた書店のカバーをかけた文庫本を偶然拾う。黒いボールペンで綴られた日記。中表紙には手書きで「共病文庫」。
 
【僕】はそれを読んで、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。
 
重大な秘密を知られたにも関わらず、彼女はいつもと変わらない笑顔を浮かべる。
 
「君に私の残り少ない人生の手助けをさせてあげます」
 
こうして互いに本心を打ち明けない、親友でも恋人でもない不思議な「なかよし」の関係が始まっていく。
 
 
いわゆる難病系、余命系というカテゴリになるんでしょうけど、桜良ちゃんの正式な病名は明らかではなく、また、家族とか医療関係者などの描写がほとんど出てきません。
 
このように、死という現実的脅威と主人公-ヒロインの想像的関係性が、社会という象徴的中間項を介することなく直結しているように錯覚させる辺りは、ゼロ年代セカイ系美少女ゲームの構造の影響がそこはかとなく感じられます。
 
実際に桜良ちゃんの言動はまるでエロゲヒロインのようです。「女の子と一緒に寝れるのは嬉しくないの?」「私をベッドまで運んで」「キミもベッドで寝なさい」「私はキミをどう思っていると思う?」「もっと私を褒めちぎりなさい」・・・等々。
 
にも関わらず、本作はエロゲ的マチズモとは一線を画すことに一応成功してはいる。ようやく【僕】が桜良ちゃんに心を開ききり「君の膵臓をたべたい」と言葉を紡ぎだした時、もう桜良ちゃんは物語の外へ「勝ち逃げ」してしまっている。【僕】は桜良ちゃんと最初から最後まで「出会い損なっている」わけです。
 
ここからは勝手な解釈ですけど、桜良ちゃんの中での勝利条件は「死への物語」の中で「死なないこと」だったように見えます。
 
皆が悲しみに暮れる中、薄命の少女として生きる残り少ない日々は死ぬ前からすでに葬送されているようなものではないでしょうか・・・このような予め用意された「死への物語」の中で生きることにギリギリまで抗って、欲望の主体として生を全うし、願わくば最期は「死への物語」の外で死ぬ。
 
もしそれが桜良ちゃんの願いだったのであれば、最期は意図せぬ結果とはいえ、これはある意味でハッピーエンドだったのかもしれません。
 
以上、さらっとした小感でしたが、本作は決してラブストーリーではなく「出会い損ないの物語」、そして「死への抗いの物語」なんだと、観ててそういう風に感じましたね。来年はアニメもあるそうですし、少し原作も読んでみたいと思います。
 
 

「自信がなくても幸せになれる心理学」を読む。褒めると人は輝く。そして、その輝きはあなたに返ってくる。

 
本書はハインツ・コフート自己心理学の入門としては現時点での決定版ではないでしょうか。和田先生はコフートの入門書を何冊か著されていますが、本書はともかく実践に重きが置かれている。人を褒めるのに苦手意識を感じる人へお勧めです。
 
「褒めてはいけない」「嫌われる勇気を持て」と常に逆説的なアドラーとは対照的に、コフート理論の全体は「褒めると人は輝く」「そして、その輝きはあなたに返ってくる」という極めて明快なメッセージで貫かれており、そこに素直に共鳴できる人は多いと思います。
 
コフートは人間は本質的に「依存」を必要とする生き物だと考えます。コフートは幸せの尺度として地位や経済力などの客観的基準よりも「自己」という一人一人がそれぞれ感じている主観的な世界観が充実しているかどうかを重んじ、「自己」の充実のためには「鏡」「理想」「双子」といった「自己対象」に依存する必要があるということです。
 
では、どうすれば誰かに自己対象になってもらうのか。それは「与えよ、さらば与えられん」という新約聖書の言葉の通り、自分から心を開いて誰かの自己対象になってあげればいい、というわけです。
 
つまり、自分を褒めてくれる鏡が欲しければ、自分も誰かの鏡になって褒めてあげるということである。相手の心理ニーズを満たしてあげる。
 
もちろん「褒める」とは単純に「おだてる」ということではありません。相手が褒められたいと思うポイント、つまり心理ニーズを適切に把握することが大事になってきます。
 
コフートのいう「共感」とは、この「相手がどういう心理ニーズを持っているか」を知る道具として位置付けられます。
 
つまり、このひとはどんな心理ニーズを持っているのであろうか、相手の立場に立って物事を考えたり、想像してみることが大事となってくるわけです。
 
例えば、明らかにかわいい女の子に普通に「かわいいね」といってみたところで、そういうニーズは彼女の中で既にさんざん満たされているであろうから、相手も別に感動してくれないわけです。
 
ところがその人が普段あまり言われていないようなことーーー例えば「あなたは可愛くて、その上に繊細な気配りもできるんですね」ーーーを言ってみると相手はビックリするでしょう。
 
また、相手の小さな変化に気付いてあげたり、相手が自分の「欠点」だと思っていることを「美点」として褒めるてみると、リフレイミング効果が起きますので、これも大変効果的だと思います。
 
いずれにせよ、相手のことを結果的に理解できたかできないかが重要ではなく「一生懸命、理解したい」とするその姿勢自体が人間関係に変化をもたらすのではないでしょうか。
 
こうして、コフートの考える理想的な人間関係における理想的なゴールはお互いが「自己対象」となり、心理ニーズを満たし合う「相互依存関係」となります。
 
この点、アドラー心理学では「褒めてはいけない、叱ってはいけない」などとキャッチコピーのように言われますが、アドラーが提唱する「勇気づけ」の本質的な核心は「尊敬・感謝の表明」にあるわけです。
 
従って、たとえ「褒め言葉」でもその意味作用が「尊敬・感謝」であれば、それは「勇気づけ」として作用することになるでしょう。
 
 
そういう点において、アドラーのいう「勇気づけ」と、コフート的意味での「褒める」は、他者の承認欲求を満たしてあげる点で実質的にはかなり近接した位置にあると思われます。
 
このように、「自立」を中核とするアドラーと「依存」を中核とするコフートだけれども、その実践上の着地点はほぼ同じ、と言うのは興味深いところです。要は、どちらの理論が「物語」として肌に合うかという問題なのでしょうね。

自閉症圏への精神分析的アプローチの可能性を探る--発達障害の時代とラカン派精神分析

 

 

 

自閉症というカテゴリーについては、かつてはスキゾフレニー(破瓜型統合失調症)の早期発症、あるいは精神遅滞と混同されていた時代もありましたが、時代の変遷と共にこれらから切り離され独自の領野を形成してきたという歴史があるわけです。
  
自閉症を特徴付けるものとして、イギリスの児童精神科医ローナ・ウィングが定義した「ウィングの3つ組」が挙げられます。
 
すなわち「対人関係・社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」の3つの特徴的な障害のことです。
 
かつてはブルーノ・ベッテルハイムによる「冷蔵庫マザー理論」の影響で、自閉症とは母親の愛情不足や冷たい態度などによる後天的障害という「母原病説」がまことしやかに流布されていましたが、現代において自閉症は脳機能の先天的障害であるという理解が一般的になっており、目下のところ、自閉症を完治させる治療法は存在しません。せいぜい二次障害を緩和させるための療育や投薬に終始せざるを得ないのが現状です。
 
ゆえにいかに精神分析といえども、残念ながら自閉症に対して有効な「治療法」とは成り得えません。アメリカの精神分析のメッカであるメニンガー・クリニックも、精神分析自閉症に効果がないと判明するやいなや、あっさりと自閉症部門を閉鎖したわけです。
 
ただ、狭義的意味の「治療」以外において、精神分析自閉症圏へ何らかの有意的なアプローチが可能なのではないか?と、そう本書は問います。同時に、本書は「自閉症」という現代的視点からラカン精神分析の理論と臨床の到達点を俯瞰することができる一冊でもあります。
 
少なくともラカン精神分析神経症圏のみならず、パラノイアからスキゾフレニーといった精神病圏に至る広大な理論的射程を有しており、自閉症圏に対しても有意なツールとなりうる可能性は十二分に秘めているといえるでしょう。
 
本書の共著者の面々は、ラカンをそこそこ齧っていたらきっとどこかで名前くらいはお目にかかっているであろう現代ラカン派を担う気鋭の論客揃いです。
 
もっとも、タイトルに「発達障害」の名前が冠されていますが、さすがに主語が大きいというか、内容はほぼ、自閉症ないし、自閉症スペクトラム障害の考察に焦点が当てられており、非自閉系のADHDやLDについての記述は薄く、発達障害を総花的に解説していると言うわけではないので、その点はご注意を。
 
また、共著であるがゆえに論者によって用語法がややまちまちで統一的理解に困難を覚えるかもしれません。ラカン派の用語に馴染みがない方は本書を読む前にまずは共著者の一人である松本卓也氏の「人はみな妄想する」辺りに目を通しておくのをお勧めします。
 
 
 

「腸内フローラ10の真実」を読む。「お腹の調子を整える」だけではない。腸内フローラに秘められた可能性。

 
腸内フローラ(腸内細菌叢)というのは腸内における善玉菌、悪玉菌、日和見菌の棲み分けのことをいいます。
 
彼らはバラバラに住んでいるわけではなく、種類ごとにグループを形成して暮らしています。その様はまるでお花畑のように生態系を形成しているため、このように呼ばれるようになりました。
 
平均的な人の体内には数にして100種類100兆匹以上、重量にして1㎏以上といわれる腸内細菌が存在する。もはや我々の体内には別の生き物が棲み着いていると言っても過言ではないでしょう。
 
離乳期の頃、その人オリジナルの腸内フローラが確立し、腸内細菌の種類はほぼ一生変わらないとされています。ただ、その比率だけは後天的な食生活習慣で変えていくことができるわけです。
 
善玉菌、悪玉菌、日和見菌の適正比率は、2:1:7だという理解が一般的です。いわゆる「整調作用」とは、これら3つの細菌のバランスが正常に保たれることを意味しています。
 
腸内フローラの改善は単に「お腹の調子を整える」だけにとどまりません。風邪やインフルエンザといった身近なところから、がん、動脈硬化、糖尿病などの生活習慣病、さらには、不眠、うつ病自閉症などにも深く関わっていると言われており、腸内フローラを無視したヘルスケアなんてものはあり得ないレベルでしょう。
 
そういうわけで本書は腸内フローラに関する最新論点、研究の最前線をわかりやすく紹介した一冊になります。
 
「やせる!若返る!病気を防ぐ!」という胡散臭いサブタイトルに反して、内容はさすがNHKというべき綿密な取材に基づいた確かなものとなっています。
 
文体は大変に平易で読みやすく、読者がいかにも疑問に思いそうな部分はきちんとフォローがなされており、論点間のクロスリファレンスも丁寧です。腸内フローラの奥深い世界への一歩進んだ深い理解が得られることは間違いないでしょう。
 
ただ、腸内フローラの基本から体系的に紹介されているわけではなく「ビフィズス菌・乳酸菌の違い」「プロバイオティクス・プレバイオティクス・バイオジェニックスの違い」といった基本的事項を一通り押さえていることが前提となっています。また、明日から何をどうすれば腸内フローラが改善されるか、といった日常的実践についても言及は薄く、ヘルスケア的関心から本書を読むとアテが外れるかもしれません。
 
 
 
 

同感するということ、共感するということ

コミュニケーションにおける一つの技法として、よく「同感するのではなく共感することが大事です」などと言われますが、この二つは一体どう違うのでしょうか?
 
一般的な辞書的意味において、「同感」とは「同じように考えること、同じように感ずること」を言い、他方「共感」とは「他人の体験する感情を自分のもののように感じとること」を言います。
 
こう言われてもあまり違いというものがよく見えてきませんね。そこで、次のように理解するのはいかがでしょうか?
 
まず、「同感」というのは、つまり「似た者同士」がお互いに「毛繕い」をするような想像的な関係をいいます。
 
「わかるわかる、実は私もそうなの」っていうやつです。準拠枠はあくまで「自分」です。
 
なので、似た者同士でなくなったら、その「違い」はたとえ僅かでも「反感」を生み出す条件となるわけです。
 
これに対して、「共感」とは、相手のこころを映し出す「スクリーン」になること、あるいはなろうとする象徴的な関係をいいます。
 
具体的には相手の話を「テクスト」として読み解き、「あなたはこういう風に感じているのね」と、「解釈」して返す役割に徹する。準拠枠はあくまで「相手」です。
 
なので、共感は「似た者同士」でなくてもできるということです。友達の出世とか結婚などといった「他人のしあわせ」にも共感はできるわけです(実践はなかなか難しいですが)。
 
なお「解釈」が適切かどうかは、「本当に正しいかどうか」ではなく、コミュニーケーションをより展開させる上で「生産的かどうか」という観点で決まってきます。
 
従って、あえて相手の意表をつく「解釈」もありでしょうし、相手の欠点を美点に変換する「リフレクション」もこの文脈の中にあるでしょう。
 
要するに「スクリーン」になるということは、相手の中に「この人はわかってくれている、少なくともわかろうとしてくれている」という信頼に満ちた感情を生み出すということです。
 
精神分析的に言えば「知を想定した主体」の出現による「陽性転移の発生」が起きるということです。
 
一応、「同感」と「共感」はそういう風に区別できます。けど別に「同感する」のが悪いわけではないんですよ。
 
「共感」より「同感」した方が、より一体的な信頼感が出る場合もあるだろうし、適度な「自己開示」はコミュニーケーションのスパイスとして作用するでしょう。
 
ただ「同感」が自分でも気がつかないうちに「反感」に変わることを予防する意味でも、自分が「いま、ここ」で想像的軸上にいるのか、それとも象徴的軸上にいるのか、という問題について自覚的になっておくのは、それなりに大事なことだと、そう思うわけです。
 

経口補水液ってどうなの?

 

今日は二十四節気の「大暑」ですので「水」に関するおはなし。
 
最近、熱中症対策アイテムとしてよく店頭で見かける経口補水液ですが、常飲していれば熱中症予防になるのか?というと、結論から言えばならないんですよ。
 
経口補水液というのは、通常のスポーツドリンクよりも浸透圧が低めで、かつナトリウムイオンなどの電解質濃度が高く設定されてます。
 
これは水分や電解質が不足している脱水症状時においては速やか水分と塩分の補給に威力を発揮します。けど普段、水分補給として常飲するのは不適切。ただの塩分の摂り過ぎということになります。
 
普段の水分補給は普通の水か、ハイポトニック系飲料が適切でしょう。この点、ポカリやアクエリアスなどの「スポーツドリンク」は浸透圧が体液とほぼ同値のアイソトニック系飲料に分類されます。これに対して、ハイポトニック系飲料というのは浸透圧が体液より適度に低く、より水分補給に特化しています。
 
例えばポカリはポカリでも「ポカリスエットイオンウォーター」なんかはハイポトニック系飲料になります
 
 
 
 
けど、お酒をたくさん飲んだときは経口補水液がオススメみたい。
 
飲酒した後は脱水状態になりやすいんです。ただでさえ飲酒は利尿作用を促進します。さらにその上、肝臓でアルコールを分解する為に、大量の水分を必要とします。そして、水分が失われる時、電解質も同時に失われます。
 
なので飲んだ当日の寝る前や起床時に、脱水気味だと感じた場合などは、水分と電解質を素早く補給できる経口補水液の摂取は適切な選択とのこと。
 
実際、お酒を飲んだ後や翌朝に試しに経口補水液を飲んでみると大概、美味しく感じるんですよ。これは要するに体内から水分と電解質が失われているからなんでしょう。
 
けどこの時もがぶ飲みするんじゃなくて、少しずつ飲むのがいいようです。塩っぱいと感じたら電解質が足りてきているので、後は普通の水か、ハイポトニック系飲料での水分補給に切り替えた方が無難なようです。
 

冷製パスタの簡単レシピメモ

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レジスタントスターチ」というのをご存知でしょうか?
 
レジスタント」=「消化されない」、「スターチ」=「でんぷん」で「難消化性でんぷん」のこと。
 
ご飯や麺類のでんぷんが冷えると一部がこのレジスタントスターチというものに変化します。
 
これは食物繊維の一種で不溶性食物繊維と水溶性食物繊維の特性をあわせ持っています。
 
多糖類であるでんぷんは通常、小腸で単糖類のブドウ糖に分解されて吸収され、血糖値を上昇させますが、レジスタントスターチは酵素分解されにくく、血糖値の上昇を抑制します。
 
そして消化されずに大腸までたどり着いたレジスタントスターチは善玉菌のエサとなり腸内フローラ安定に役立つとのこと。なんだかいいことづくめですね。
 
そういうわけで、最近は冷製パスタの味付けを研究中。めんつゆ、ポン酢、マジックソルトなど、色々と試行錯誤しています。
 
参考までに、柚子胡椒冷製パスタの簡単レシピメモです。
 
 
材料
 
・パスタ・・・100g
 
・☆オリーブオイル・・・大さじ1
 
・☆お酢・・・大さじ1
 
・☆昆布だしの素・・・小さじ1
 
・☆柚子胡椒・・・小さじ1〜2
 
・ツナ水煮缶・・・0.5缶
 
ミニトマト・・・4個くらい
 
・オクラや大葉などをお好みで。
 
作り方
 
①お湯を沸かし、塩を適量入れて、パスタを茹でる。塩は1Lの水につき10gが目安。
 
②その間にトマトや野菜を切る。
 
③パスタをザルか何かに引き上げる。水気は切りすぎない。
 
④☆とトマトとツナと野菜を混ぜ合わせて冷蔵庫で冷やして出来上がり\(^o^)/